電子の雑煮

レポートが苦手な大学生です。苦手を克服するためにレポートを公開したいと思います。

トルコの地誌を描く ―様々な歴史が溶け込む地域の特徴と課題―

 

1. 序論

 本稿は、トルコの地誌を描くことを目的としたレポートである。そのため本論では、トルコがどのような国なのかを記述していく。まずは風土の基本、気候と地形について説明する。次いでトルコの歴史を説明し、それからは、現代のトルコが抱えている問題点について検討を行う。トルコの歴史の部分を詳述したのは、トルコの地で起きた数々の歴史的事象もまた、土地の特徴だと筆者が捉えたためである。

 

2. トルコの基本情報

 まず、基本的な情報を確認する。トルコ共和国小アジア、もしくはアナトリア(ギリシア語で「日の出ずる場所」の意味)と呼ばれる地域にある国で、面積は約80万㎡(日本の約2倍の広さ)、首都はアンカラにある。国民は約8000万人おり、その内の4分の3がトルコ人、残りがクルド人、その他少数民族で構成されている。クルド人の居住はトルコ南東部に集中している(図-1)。国の定める言語にはトルコ語が、文字にはラテン文字が使われている。

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(図-1)クルド人の居住地域

 

3. トルコの気候、地形

 トルコは古代から沿岸部に都市が作られた。そのため現在でも、人口はやはり沿岸部のほうが多い(図-2)。沿岸部から離れて内陸に入ると、急に標高が高くなり、国土の大半が標高1000m前後の高原になっていることがうかがえる(図-3)。そのため内陸は、全体的に涼しい気候だと言える。対して人口の多い沿岸部は、典型的な地中海性気候となっている。これらの地域では、地中海の象徴であるオリーブをふんだんに料理に使う。一方で内陸は、ステップ気候の乾燥帯も多いが、北部などは雨が多く、農業や酪農が盛んである。そのため、内陸ではオリーブよりもバターや尾脂(羊の尾にたまる脂肪のかたまりのこと)が好んで使われており、農業の形態に応じた食文化が作られていることが分かる。また、北東部ではリンゴが取れるが、南西部ではオレンジが取れる。日本の南北の関係と同じような、多様な気候があると言える(図-4)。

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(図-2)トルコの人口密度分布図

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(図-3)トルコの標高図

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(図-4)トルコ周辺の気候図

4. トルコの歴史

 トルコの特徴はなんといっても、その歴史の長さ、住む人々の塗り替わりの多さにあると言える。その歴史の始まりは、人類史において初めて鉄を使用したとされる民族、ヒッタイト人にまで遡る。首都アンカラの北東にあるボアズキョイ村からは、ヒッタイト帝国の首都であったハットゥシャ遺跡が出土した。ここで発見された粘土板には、史上最古の和平条約が刻まれているという。

 オリエント文明に続いて、この地にはギリシア人たちが入植してきた。アナトリア西部からは、ホメロス叙事詩イリアス』の舞台であるトロイア(イリオス)が発掘されている。ギリシア本土から渡ってきた人々は、ギリシア人の中でもイオニア人と呼ばれるグループであり、本土とはまた異なる文化を形成した。最古の歴史家ヘロドトスハルカリナッソスから、最古の哲学者タレスはミレトスから、いずれもこのイオニア植民市から現れた。このため、アナトリアは文明を育む母の役割を担ったと言えるだろう。

 そうした多くの国々によって支配をうけたアナトリアは、イラン系ササン朝ペルシアと、アレクサンドロス3世の大帝国(アルゲアス朝マケドニア)を経て、ヘレニズムの時代へと至る。この地域がローマ人による支配を受け、その後ローマが分裂しビザンツ帝国となって以降、ラテン語よりもコイネー(中世ギリシア語のこと。「共通」の意)が好んで話されたことからも、この地に残ったギリシアの影響力の大きさはうかがい知ることができる。

 アナトリアの最終的な支配者であるトルコ人の起源は、中国の歴史に現れる「匈奴」と目されている。彼らは、はるばる東アジアの北部から、ユーラシアを横断してこの地に定住した、チュルク語族という言語のグループに属している。チュルク語族には他に、中央アジアの国々の言葉やモンゴル語が属する。特にコーカサス地域に住むアゼルバイジャンなどのチュルク系の民族との類似点は非常に多く、ほぼそのままに言葉が通じるという。ちなみに系統不明とされている日本語や韓国語も、地理、語彙的な関係や膠着語という共通点からチュルク語族と見なされることがある。

 彼ら遊牧民族たちは、当時の東アジアから中央アジアにかけての広い地域にわたって住んでおり、非常に高い戦闘能力を有していたとされる。その実力は、戦いに負けて逃げた先の地域を支配してしまうほどのものであった(烏孫キルギスの例)。彼らは唐代までは主に東アジアに住んでおり、中国の歴史にたびたび干渉したが、唐の崩壊前後に中央アジアに移動し、イスラム教の教えを取り込みながらその地を支配、1299年にオスマン帝国を建国した。オスマン帝国の国力はすさまじく、1453年にビザンツ帝国を征服した。オスマン帝国は、ブルサに置いていた首都を、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルへと遷都し、その名をイスタンブールと改めた。

 オスマン帝国はその規模からイスラム教の盟主とされ、数百年もの間、絶大な支配を誇ったが、欧米列強が近代化していく流れにはついていくことができず、第一次世界大戦の後には敗者として、列強による割譲を許す条約を結ばされることとなった。帝国の近代化を急いでいたトルコ軍人たちは、この不条理な条約を境に立ち上がり、トルコ革命を起こして帝位を廃位、トルコ共和国を建国して、列強による割譲の危機を防いだ。革命の中で軍部から頭角を表したムスタファ・ケマル・パシャ[1]は、革命の後、初代大統領に就任し、トルコの近代化政策を推し進めた。そのため現在のトルコでは、イスラム教において正当とされているいくつかの風習(太陰暦アラビア文字など)を国家的には採用していない。イスラム教の盟主であり、複数の民族を支配していたオスマン帝国とは対称的に、現在のトルコは世俗化と、トルコ人としての自意識の特徴を持っていると言えるだろう。ただし、近年はトルコ国内でもイスラム原理主義の人々が増えていたり、熱心に信仰する人が再び増加していたりと、「揺り戻し」の面もあると見られている。

 以上のように、トルコには非常に複層的な文化、文明が残っていると言えるが、現在住んでいるトルコ人たち当人からすれば、古代の遺産は「以前の住民の忘れ物」ぐらいに思われているようであり、文化財の保存の環境は、残念ながらあまり進んでいるとは言えない。歴史学、地誌学の観点から言えば、これらの文化の保存への働きかけが求められていると言える。

 

5. トルコという地域が抱える問題 —「クルド人問題」と「ゲジェコンドゥ」について

 先ほどからアナトリアという呼称を用いているように、この地域は別にトルコ人だけのものではない(長い歴史から見れば、彼らもまた「よそ者」である)。この地には、トルコ人とは来歴の異なる、イラン系クルド人が数多く住んでいる。彼らは特にトルコの南東部に多く、これまで再三にわたって政府に独立を求めてきた。その概略と、現在のトルコに見られる格差の問題について説明する。

 トルコ国内に住むクルド人勢力は、1970年代に「クルディスタン労働者党(PKK)」を作り、トルコからの独立を求めて活動を始めた。それに対しトルコ政府は、彼らをテロ組織だと断定し、彼らの影響が及ぶ地域の住民たち(主に一般のクルド人市民)を武装させるという手段に出た。1980年代に入って、PKKとトルコ軍の間の戦闘が激化すると、一般市民はそこから避難せざるを得なくなり、その大半が都市に流入していった。しかしこの住民の移動が、さらなる問題の引き金となる。

 そもそも都市部では、1960年代から、農村から出稼ぎに来た人々によって作られたゲジェコンドゥ(トルコ語で「夜に建てたもの」を意味する。違法建築のことを指す)の急増が深刻化しており、1980年代に入って、政府によるその違法な土地利用を容認する法令が出されたという経緯がある。ゲジェコンドゥの居住者は、この法令を境に土地の商業的利用、家屋の賃貸を始めていった。この状況下において流入したクルド人市民たちは、旧居住者が賃貸している劣悪な環境のゲジェコンドゥに住むほかなく、より貧困に苦しむことになった。さらに彼らは、トルコ人からの差別による迫害も受けるようになり、その窮状は筆舌に尽くしがたいものとなった。以上が、一連のクルド人問題についての説明である。

また、都市部に現れたゲジェコンドゥ自体も問題を多く有している。例えば、違法建築であるそれらは丈夫な作りをしておらず、災害が起きたときに甚大な被害を発生させるという点が挙げられる。そして懸念すべきことに、トルコのあるアナトリア半島は、プレートテクトニクス[2]において3つのプレートの境界となっており、日本と同様、地震が起きやすい地域となっている。現に、1999年と2020年に起きたイズミット地震では、ゲジェコンドゥにおいて甚大な被害が起きた。ゲジェコンドゥの住民たちは、あくまで都市の機能から疎外されている側であり、クルド人同様、援助が必要な人たちであることに変わりはない。

               

6. 問題の解決のために

 では、それらの問題の解決のために政府が実行していることは何なのか。これについて論じてみたいと思う。まず、クルド人問題についてだが、これにはっきりとした支援策を行ったのは、ケマル・アタテュルクの後継である改革・世俗派の「共和人民党」ではなく、保守・イスラム派である「公正発展党」が政権を取って以降のことである。彼らは帰村を求めるクルド人のために、PKKとの戦闘によって破壊された地域のインフラの再興に予算を割り当て、段階的な帰村を促している。

 これに対して世俗派は、クルド人問題について、軍を送って争いを起こしたものの、支援をすることは全くとしてなかった。その理由は先ほども説明したように、世俗派はトルコ人としての民族意識が強い、という点にあると見られる。この意識がトルコ人によるクルド人への差別につながり、支持層を通して世俗派の政策に影響を与えたのだと推測される。

 筆者としては、政教分離が損なわれるということについて、それにより生まれる損失が非常に大きくなることが予想されるため、簡単にイスラム派を支持することはできないが、一方で、宗教の代わりの紐帯となる民族意識が差別感情や優越観を生み出す原因となることも、見過ごすことはできない。ゆえに、現在は政権から降りている世俗派に必要なことは、クルド人などの少数民族もまた、同じ国民として利益を受けるべき「仲間」であることを国民に理解してもらう、ということだと思われる。対立を超え、和解しあう必要性が求められている。

 一方のゲジェコンドゥ問題については、ゲジェコンドゥが秘める可能性について考える必要があると思われる。現在の政府によるゲジェコンドゥへの対策は、古い違法建築物たちを取り除いて、その土地に新たな集合住宅を建てるプランを提示することが主である(単純に再開発によって立ち退きを命じられる場合も多い)。しかし住民の多くはそれに反対して、自分たちはここに「住む権利」があるのだと主張し、市民間の協力によって状況を改善しようと、連帯を始めている。彼らの自発的な意志を妨げてまで、排他的に都市の健全化を進めようとすることは、正しいとは言えないだろう。地震の例に見ても、その体験を語り継ぐには、住民による積極的な参加が必要である。先ほども紹介した、イズミット地震の際の被害を忘れないために作られた施設や記念碑は、そこに住まう地域の人たちの繋がりが弱く、文化的資源としての効用が低くなってしまったという指摘もあった(木村 2010, pp.51-52)。上からの改革を断行しようとするのではなく、政府と国民の双方が協力して、共同体としての機能を十全に発揮できる環境を整えることが重要である。

 

7. 結論

 本論ではこれまで、トルコの地誌を描こうと試みてきた。まずは、トルコの気候や歴史について述べ、多様な文化と複層的な歴史を持っていることを説明した。それからは、トルコという地域におけるいくつかの問題について説明し、その解決策を提案した。結論としては、トルコは多様な文化によって成り立っている一方で、ナショナリズムによる民族問題や、都市と農村の間にある格差の問題など、課題も多く残っており、それらに対処していく必要があることを確認した。

 本稿では、クルド人を独立させる方向のアプローチを提案することができなかった。理由は主に以下の三つにある。①クルド人はトルコ以外に、イラク・イラン・シリアなどの各地にも散らばっているために、政府が認めることで独立させる形であっても、各国の足並みを揃える必要があり、一国の意見だけでは実現が困難であること。②各国のクルド人たちは必ずしも同じ文化を共有しているわけではないため、それぞれのクルド人解放組織が掲げている目標が異なっており、それらを合わせる必要があるのか、それとも別の国家として独立すべきなのかを検討しなければならないこと。③彼らクルド人解放組織の一部は、シリア内戦やイスラム国との戦闘に参加して活躍しており、ロシアやアメリカから多くの支援を受けているため、冷戦以来の国際的対立の問題に巻き込まれていること。これらの問題については、より綿密かつ広範囲な背景の理解が必要になると思われるので、これについては今後の課題としたい。

 

〈参考文献〉

小川杏子「『ゲジェコンドゥ』における『居住権』運動とその背景 : トルコ共和国アンカラ市を事例に」、『アジア太平洋レビュー』、第15巻、2018年、pp.47-64。

木村周平「サステナブルな文化資源としての記憶?―トルコにおける地震の記憶から」『国立歴史民俗博物館研究報告』、第156巻、2010年、pp.39-56。

鈴木慶孝「現代トルコにおけるクルド市民への社会的排除に関する一考察―国内避難民問題に関する報告書を中心として」『法學政治學論究:法律・政治・社会』 、第99巻、2013年、pp.199-229。

鈴木董編『アジア読本 トルコ』河出書房新社、2000年。

『教育ネットひむか―国際理解:タイ・インド・トルコのくらし』http://material.miyazaki-c.ed.jp/ipa/kokusairikai/tai_indo_toruko/toruko_aramasi/IPA-kok260.htm (2021/01/17)

トルコ共和国大使館 文化広報参事官室』http://www.tourismturkey.jp/ (2021/01/17)

 

計5570字(表題部除く)

 

[1] この人物の名前は、時代によって呼び方が異なる。彼は死後、「トルコの父」を意味する「アタテュルク」という呼び名を与えられ、現在は「ケマル・アタテュルク」と呼ぶのが最も一般的とされている。

[2] 地震・火山活動・造山運動などの地球表面の大きな変動が、各プレートが固有の方向に動くために、プレートの境界で起こるという学説。

『メタ倫理学入門』読書ノート

珍しくある程度ちゃんと読書ノートを書き残していた本を見つけ出したので、参考というか(悪い)例として共有してみようと思います(むしろこれを見た方がどういう読書ノートを付けてるのか教えて欲しいです)。本書は立場が非常に多いので、後ろの方には、この本に出てくる「○○主義」を一覧にまとめておいたメモも付記します。コピって使ってください。

参考文献: 佐藤岳詩『メタ倫理学入門』勁草書房、2017年。(3000円)

 

『メタ倫理学入門』読書ノート

 

〈はじめの問い〉

・私はまだ倫理学を簡単にしか学んでいない身である。まずは急がずに基礎知識を身につけたい。

 

〈読み終えて〉

・道徳があるのかないのか、非常に考えさせられる本だった。読んでみての自分の立場は、当初は「道徳的虚構主義」に近いと思われたが、他の主張に一理あると思われることもあった。また、自分が在籍している古代哲学の分野だと、自然主義が基本となって語られることが多いため、ギャップを感じるなあという感想を抱いた。

・それぞれの著者を調べる中で、新アリストテレス主義(徳倫理学)の研究者たちが皆女性であることに気づき、これを興味深く思った。自分は以前、アリストテレスを読んでみたときに、男尊女卑に辟易して本を閉じてしまう経験をしたので、そうした読みをひっくり返す、彼女たちの試みに関心を抱いた。

・この本は非常によい学びとなった。しかしこの本は入門書であり、先へと続く道しるべである。次は、原著に向かい、他の人と話し合い(あるいは薦め)、なじませていくことで、次に繋げていきたいと思う。

 

p5

ミル的功利主義を除けば、功利主義に道徳的根拠づけは必要か?(効率性だけの話をしているのではないのか?)

→どうやら「功利主義」は、一般的にミル的功利主義を指すらしい。

 

p31

客観的性質の確実性は非常に疑わしい。例示に出ているような五感はなぜ、ある程度の共通理解が可能なのか?

→言語的情報を共有(口コミ、感想)することで同一化が発生している?

ex映画を観ながらおしゃべりが出来るとすれば、おそらく一緒に観ている人たちの感想は、そうでない場合よりも似通うことだろう。

 

p41

例えば、モラリストたちの意図を考えてみよう。モラリストたちの言葉は表出主義的か?それとも認知主義的か?

→認知主義的に思える。

→それはなぜ?

 

p45

例えば、人権を(完全に)支持する人たちからすれば、男尊女卑の習俗は全て排斥されるべきなのか?

 

p48

異文化人が、その風習をどうしたいのか。保存したいのか、変えたいのかを功利的(民主的)に判断するとよい?

 

p49

「弱者のための倫理を保護しなければ、私に降り注ぐ理不尽であっても反対できないのではないか?」という主張もまた、一元的に物事を考えているだけのような気がする。倫理(多少の普遍性)を担ぎ上げるのも、倫理の相対性を謳うのも、どちらもあってよいはずだ。

 

p70

・奇妙さからの論証

①もし客観的価値が存在するとすれば、それらはこの世界の他のものと全く違った、非常に不思議な種類の実体となるだろうが、そんな奇妙でいかがわしいものが実在するとは思えない。

②また、そんな不思議な実体に気がつき得るとすれば、普通の方法ではたどり着き得ない、道徳的直感といった特別な能力によるということになるだろう。しかし、そんな特別な能力が私たちにあるとは思えないので、客観的な道徳的価値は実在しない。

 

p78

性善説性悪説の議論に似ている。性悪説においても、悪が存在するというのではなく、無知である人間が協力したり努力したりすることで善を生み出していけるという主張をする。

 

p82

道徳的虚構主義を取っているからといって、何も道徳的判断を理由に理性的になってはいけないというのはおかしい。道徳的虚構に気づいていながらも、メタ度を落として道徳性を「演じて」もいいのではないか。

→反省的自己と非反省的自己のお話かも?

 

p83

価値判断というのは、道徳的なもの以外にも基づけるのではないか(利己性、効率性)。

→道徳以外の価値基準というのは、外在化された目的であり、自存的なものではないのではないか。

→反対に、道徳は常に内在的な価値基準なのか?(義務的でない道徳が存在するのか?)

 

p83

メタ度を下げた方が(疑うことのない信徒であった方が)道徳とは上手に機能するのではないか。むしろ、道徳的な行動を取れるというレベルの人間は、大半が道徳を心の底から信用しているのではないか。

→こうなると準実在論ではないのか?

 

p103

・還元主義

ある超自然的な概念を、自然的に実在する何か別の言い方に過ぎないとする事で、その実在を確かなものにしようとすること。ゾンビパターン(ゾンビをウイルスの症状という設定にすることで合理的に説明する)。

 

p111

「道徳的性質と自然的な性質は、同じものを指し示すか、違うものを表している」

ヘーゲル的?弁証法を用いて、様々な角度から「善は快である」と言えるものを重ねていく。

 

p112

「定義を作り直していくことが、理論を作っていくことだ」

 

p116

倫理を科学の場に引き出せる点がコーネルリアリズムの強み。

 

p125

「道徳は動機付けの力を持たない」とあるが、道徳とはそもそも動機付けの理由として説明されるものではなかったか?

→「弱い実在論」の項目を参照。

 

p125というか4章全体に対して

・「道徳の重さ」について

「道徳の重さを分かっていない」という実在論系の反論が多く見られるが、「道徳の重さは、そもそも保証されるべきか」ということについて、もう少し考える必要があるのではないだろうか。

 

p141

ムーア的直感主義とは、決してオカルトじみているのではなく、「他の何かに言い換えることが出来ない」からこそ「道徳それ自体が善い」と言う他ない、という立場のことである。

 

p160

道徳的虚構主義と準実在論の違いはどこか。

 

p160

幽霊は実在しているかどうか分からないが、私たちに影響は与えている。影響を与えるなら、実在しているのと同義に近いと言えるのではないか。(ただしこれは科学が強い支配力を持っていない社会においての話である。なぜなら科学とは道徳実在論の例えだからである。)

 

p166

価値から態度が作られるのであり、また欲求が価値になるのではない、というのが実在論側の前提にある。「正義のために」の「正義」とは?

 

p178

「地盤の例え」

実在論→人々は皆陸地の上で暮らしている。

非実在論→人はそれぞれ一人分の木材を与えられ、自分用の舟を浮かべて生活している。

第3の立場→人々は集まって比較的大きな船を作り暮らしている。

 

p180

トーンポリシング反対論は手続き的実在論への反論と一部重なっている?

 

p184

形式と実質の乖離。

 

p208

表現型情緒主義はトーンポリシング反対論と結びつきそう。

 

p210

体罰そのものについて述べていないからと言って、それは意見は一致しうると言えるのか?

 

p224

人に勧める根本的な理由とは?(プラグマティズムの有用性の根源と同質)

 

p246

なぜビーガンは宣伝下手なのか?

→世の中の「普通の」道徳的な人は表出主義が多く、反対にビーガンでは認知主義が多いのではないだろうか。

 

p258

「同情」は果たして道徳的欲求か?道徳的判断ではないのか?

 

p259

外在や内在に関わらず、相手の判断を変えさせるために最も有効な手段について話し合おう。

 

p260

外在主義と内在主義の差は、「世の中の人間は基本的にクズで、たまにいい人がいる」と「世の中の人間は基本的に善人で、たまに悪人がいる」の差で見ると分かりやすいのではないか。

 

p301

・道徳的であることの理由がトリヴィアルであることは、直観主義的であるように思える。そのため理性主義に対する批判に、トートロジーが起きているという点は当たらない(本当に?)。それそのものが善いとされる理由に、軽々しく答えるべきではないのも、また事実であるように思える。

・トマス・ネーゲルの倫理的立場って述べられてなくない?

 

『メタ倫理学入門』 主義まとめ

 

・主観主義

・客観主義

・道徳的相対主義

→事実レベルの相対主義

→規範レベルの相対主義

→メタレベルの相対主義

・普遍主義

 

非実在主義(錯誤理論)ージョン・マッキー

・道徳全廃主義(ニヒリズム)

・道徳的虚構主義

→解釈的虚構主義ーマーク・カルデロン

→改革的虚構主義ーリチャード・ジョイス

・保存主義ーヨナス・オルソン

 

自然主義実在論

・意味論的自然主義(功利主義、徳倫理学)

・還元主義的自然主義

→分析的還元主義ーフランク・ジャクソン

→総合的還元主義ーピーター・レイルトン

・非還元主義的自然主義(コーネルリアリズム)ーリチャード・ボイドetc…

 

自然主義実在論

・神命説

・強固な実在論(直感主義)ージョージ・エドワード・ムーア、ハロルド・アーサー・プリチャード

・理由の実在論ーデレク・パーフィット、トマス・スキャンロン (ヘア、ロールズの流れを汲む)

@理由の内在主義ーバーナード・ウィリアムズ

@理由の外在主義ーD.パーフィット

 

第三の立場

・準実在論(投影主義)ーサイモン・ブラックバーン

・感受性理論ージョン・マグダウェル

・手続き的実在論ークリスティン・コースガード、ジョン・ロールズ

・静寂主義ーリチャード・マーヴィン・ヘア

 

表出主義(非認知主義)

・表現型情緒主義ーアルフレッド・エイヤー

・説得型情緒主義ーチャールズ・スティーブンソン

・指令主義ーR.M.ヘア

・規範表出主義ーアラン・ギバード

 

認知主義

→動機付けの内在主義

→動機付けの外在主義

・ヒューム主義

 

ニヒリズム

・科学主義

・理性主義

→カント主義的理性主義ーC.コースガード

→新アリストテレス主義的理性主義ーフィリッパ・フット

・見方の倫理ーアイリス・マードック

 

その他

ウィラード・オーマン・クワイン                    

ロバート・ノージック

トマス・ネーゲル

 

哲学史

18C〜 自然主義実在論(古典的功利主義)

1910〜30 非自然主義実在論(直感主義)

1930〜40 情緒主義

1950 指令主義、規範表出主義

1970 非実在論、虚構主義、手続き的実在論、感受性理論、準実在論

1980 自然主義実在論(還元的実在論、コーネルリアリズム)

2000 非自然主義実在論(強固な実在論、理由の実在論)

『 l may fall』 和訳

 今日は、私が大好きな作品、『RWBY』の作中歌、『I may fall』の和訳を紹介したいと思います。訳自体は、受験生のころに英語の勉強と称してやってました。なのでガバガバです。全然分かってません。英語が得意な方、ぜひ『RWBY』を見て私に英語を教えてください。もちろん苦手な方も見てください。英語の勉強になります。

 自分の解釈の過程を見せたいと思い、まずはなるべく直訳で訳したものを載せた後に、意訳版を載せたいと思います。タイトルでもある『I may fall』は、非常に多義的なニュアンスを持っているので、位置によってニュアンスを変えてみたらカッコいいかなと思い、ラストに含ませてみました。拙訳ですが、アドバイスのほどよろしくお願いします。

・ファンダムの記事も参考までに↓

rwby.fandom.com

YouTubeの動画も↓

youtu.be

 

〈直訳版〉

There's a day when all hearts will be broken,

心の全てが壊される日がある

When a shadow will cast out the light,

影が光を追い出すであろうときに

And our eyes cry a million tears:

そして私たちの目は百万の涙を流す

Help won’t arrive.

だが、助けは来ないだろう

 

There's a day when all courage collapses,

全ての勇気が崩れる日や、

And our friends turn and leave us behind.

友が向きを変え、私たちを残して去ってしまう日もある

Creatures of darkness will triumph:

闇の怪物が勝利するだろう

The sun won't rise.

そして、陽は昇らなくなるだろう

 

When we've lost all hope,

私たちが全ての希望を失い、

And succumb to fear,

恐怖に倒れ、

And the skies rain blood,

空が血を降らし、

And the end draws near,

終わりが近づく時

 

I may fall

※私は(死ぬ/倒れる/屈する/滅びる)かもしれない(することができる)

But not like this: it won't be by your hand.

しかしこのようにではない、それはあなたの手によってではない

I may fall

Not this place; not today.

ここではない、今日ではない

I may fall

Bring it all: it's not enough to take me down.

全てのそれを持ってこい、それは私を倒すのに不十分だ

I may fall

 

There's a place where we'll stand outnumbered;

私たちが大軍に立ち向かう場所がある

Where the wolves and the soulless will rise.

狼や魂無き存在が起き上がる場所だ

In the time of our final moments,

私たちの最後を迎えるとき、

Every dream dies.

全ての夢は死ぬ

 

There's a place where our shields will lay shattered,

私たちの盾が打ち砕かれる場所がある

And the fear is all that is left in our hearts.

そして恐怖は私たちの心の全てに残る

Our strength and our courage have run out:

私たちの力も、私たちの勇気も尽きてしまった

We fall apart.

そして、私たちはバラバラに崩れ落ちる

 

When we lose our faith

私たちが信念を失い、

And forsake our friends;

友を見捨てる時

When the moon is gone

月が消され、

And we've reached our ends,

私たちが終わりに達した時

I may fall

私は死ぬのかもしれない

 

There's a moment that changes a life when

人生を変える瞬間がある

We do something that no one else can.

私たちが他の誰にも出来ない何かに取り組む時

And the path that we've taken will lead us:

そして私たちが選んできた道が、私たちを導くだろう

One final stand.

①最後の(戦い)が起こる

②最後の抵抗を

 

There's a moment we'll make a decision

私たちが決意する時がある

Not to cower and crash on the ground.

身をすくめずに、地にも伏せずに

The moment we face our worst demons:

私たちが最悪の悪魔に立ち向かう時

Our courage (is) found.

私たちの勇気は見つかる

 

When we stand with friends,

私たちが友と共に立ち上がり、

And we won't retreat,

退こうとしない時

As we stare down death

私たちが死を見つめる時

Then the taste is sweet.

その味は甘い

 

I may fall

But not like this: it won't be by your hand.

しかし今回ではない、それはあなたの手によってではない

I may fall

Not this place; not today.

ここではない、今日ではない

I may fall

Bring it all: it's not enough to take me down.

全てのそれを持ってこい、それは私を倒すのに不十分だ

I may fall (繰り返し)

I may, I may fall.

 

〈意訳版〉

There's a day when all hearts will be broken,

皆の心が挫けちゃうときや

When a shadow will cast out the light,

影が光を覆う日が来るかもしれない

And our eyes cry a million tears:

私たちがいっぱい泣いたとしても

Help won’t arrive.

助けは来ないの

 

There's a day when all courage collapses,

皆の勇気が崩れるときや

And our friends turn and leave us behind.

仲間が俺たちを見限るときも来るだろうさ

Creatures of darkness will triumph:

そして闇の怪物によって世界は支配されて

The sun won't rise.

太陽は昇らなくなるの

 

When we've lost all hope,

皆が全ての希望を失って

And succumb to fear,

恐怖に負けた時に、

And the skies rain blood,

雨が赤く染まって、

And the end draws near,

終わりが近づくその時に…

 

I may fall

私は倒れるかもしれない

But not like this: it won't be by your hand.

だけどこんなもんじゃない、お前なんかにやられたりしない!

I may fall

私は倒れるかもしれない

Not this place; not today.

でもこんなとこじゃない、今日なんかじゃない!

I may fall

私は倒れるかもしれない

Bring it all: it's not enough to take me down.

全力でかかってこい、そんなんじゃ全然足りない!

I may fall

私は倒れるかもしれない

 

There's a place where we'll stand outnumbered;

たとえ多勢に無勢であっても、

Where the wolves and the soulless will rise.

私たちが怪物どもに立ち向かわなきゃいけない時が来るわ

In the time of our final moments,

たとえその日が私たちの命日になって

Every dream dies.

全ての「夢」が潰えてしまうのだとしても

 

There's a place where our shields will lay shattered,

俺たちが身を守るすべを失って、

And the fear's all that's left in our hearts.

不安で心がいっぱいになる時も来るかもな

Our strength and our courage have run out:

力も勇気も尽きちゃって

We fall apart.

私たちはバラバラになるのかな

 

When we lose our faith

もう皆が信念を失くしちゃって

And forsake our friends;

仲間を見捨てしまう時に、

When the moon is gone

月の輝きすら無くなって

And we've reached our ends,

終わりを迎えるその時に…

I may fall

私、死ぬんだなって

 

There's a moment that changes a life when

さあ、生まれ変わろう

We do something that no one else can.

他の誰もやってくれない、俺たちがやるしかないんだ

And the path that we've taken will lead us:

これまで選んできた道が、私たちを導くわ

One final stand.

最後の抵抗へと

 

There's a moment we'll make a decision

さあ、決断の時だ!

Not to cower and crash on the ground.

身をすくめずに、地にも伏せずに

The moment we face our worst demons:

最悪の悪魔にも立ち向かう時、

Our courage found.

勇気は再び私たちの手に!

 

When we stand with friends,

仲間と共に立ち向かい

And we won't retreat,

一歩も引き下がろうとしない時、

As we stare down death,

恐れずに死と向き合えば、

Then the taste is sweet.

勝利の女神は私たちに微笑む!

 

I may fall

私は死んだってかまわない!

But not like this: it won't be by your hand.

だけどこんなもんじゃない、お前なんかにやられたりしない!

I may fall

私は死んだってかまわない!

Not this place; not today.

でもこんなとこじゃ、まだ今日じゃ終われない!

I may fall

私は死んだってかまわない!

Bring it all: it's not enough to take me down.

全力でかかってこい、そんなんじゃ全然足りない!

I may fall

たとえ私が倒れて

I may fall

死に絶えて

I may fall

朽ち果てて

I may, I may fall.

消え去るとしても、でも、それでも!

ソ連における農民について

1.序論

 本稿は、第二次世界大戦以前までのソ連において、農民がどのような役割を担ったのかを検討することを目的としたレポートである。したがって本論においては、それぞれの時代における農民の状況と、それに関わる政治的動向を追いながら、ロシア帝国時代、ロシア革命・内戦期、ネップ期、農業集団化の4つの時期に分けて論じていく。

 

2.ロシア帝国時代の農村

 ロシアの農村は中世以来、ミールという共同体による農業を営んできた。1861年農奴解放令が出されると、農地の所有は地主から国有に移ったが、それは無償で農民に配分されるわけではなく、農民は借金をする形で、農地を利用した。この借金は年間地代の約16倍の額であり、普通の農民が支払うことは不可能だった。土地の所有・管理はミールに委ねられ、そこから分配される仕組みで経営された。農法としては三圃制を取っており、決して効率がよいわけではなかったが、少しずつ余剰作物の蓄積がなされ、鉄道網の整備とも相まって、次第に都市に流通する量を増やしていった。

 農村の発展が進むと、土地不足が問題になり始めた。また、均等に土地が行き渡るように、痩せた土地と肥えた土地を細分化して分配し、管理の手間も増えていった。1世帯あたりの土地を細長く分割した地条stripsが、当時の農村の特徴であった。家から遠い場所に、細切れに土地が割り当てられるケースもあったという。そのため、一部の農民は新たな農地を求めて、従来農地が集中してきたモスクワ近辺の黒土(チェルノーゼム)地帯を抜けて、西シベリア、北カフカスなどに移住するようになっていった。しかし、それ以上の地域は土質がチェルノーゼムではなくなってしまうため、拡大にも限度が見られた。20世紀初頭の農村では、一人当たりの土地が減少し、生産能力が落ちていたことが分かっている。

 第一次世界大戦が勃発すると、農民は兵士として駆り出された。しかし、戦闘の長期化によって食糧難が深刻となり、ロシア軍には厭戦気分が蔓延した。当時の農村では、ナロードニキの流れを汲む社会革命党(通称エス=エル)の支持が圧倒的だったが、一部のボリシェヴィキはこの間に農村に入り、呼びかけを繰り返して農民の支持を得ていった。わずかではあるが農民ソヴィエトが形成され、彼らは共産党の支持基盤として機能した[1]

 

3.ロシア革命期における農村

 三月革命によってニコライ2世は退位したが、次いで建てられた臨時政府は戦争を継続する判断を下した。また臨時政府はボリシェヴィキを危険視し、圧力を加えていったが、彼らの勢力は規模が拡大していたために、抑え切ることは不可能であった。4月にレーニンが帰国し、「四月テーゼ」が発表されると、即時停戦と土地の無償分配に農村は沸き立った。続いて十月革命が起き、ボリシェヴィキが政権を奪取すると、彼らに反対する勢力が独立を始めた。ロシア内戦である。

 ボリシェヴィキは都市と赤軍に食糧を確保するために、この事態を「戦時共産主義」と称し、「食糧独裁令」を制定した。これは、農村に武装部隊を派遣して食糧を徴発する、農民からしてみればとんでもない命令であった。これを制定したのは、党官僚として頭角を表し始めながらも、まだ無名だった頃のスターリンだった。ボリシェヴィキを信じた農民にとっては、この命令は裏切られたに等しかった。理不尽に見舞われた彼らは、同じく武器を持って抵抗した。ボリシェヴィキが作る赤軍と、反ボリシェヴィキ勢力と欧米列強が連合して押し寄せてきた白軍の争いに、農民反乱軍の緑軍が加わり、戦局は混迷を極めた。結局、ボリシェヴィキがこの戦いを制し、争いを鎮圧した。またボリシェヴィキは、内戦に乗じて独立しようとした非ロシア系の勢力に対して、共産党以外の党派による独立も認めず、そうした勢力が議会を占めた場合には、これも鎮圧した。

 1922年に、ソヴィエト社会主義共和国連邦は成立した。この中には、多くの非ロシア系の連合共和国が含まれていた。例えばモスクワに隣接するウクライナは、その国土の大半がチェルノーゼムであり、優れた穀倉地帯として機能した。それは一方で、他民族を抑圧して引き出した資源でもあった。

 

4.ネップ期における農村

 内戦を乗り越えて成立したソヴィエト政権にとって、目下の課題はいかにして経済を立て直すかであった。二つの戦争を経て、国内の経済は著しい打撃を受けていた。20年の農業生産は戦前水準の6割強にすぎず、工業にいたっては戦前の2割程度にまで落ち込んでいた。政府は手始めに、農民への穀物徴発をやめて累進的な現物税を採用した。これは、市場経済の一次的な復活を意味し、資本主義の克服を目指す共産主義と矛盾していると、党内でも意見の分かれるものであった。この時期は1927年まで続き、ネップと呼ばれた。

 1924年にはレーニンが亡くなり、後継者争いが勃発した。スターリンは、赤軍を指導するライバル、トロツキーを失脚させるために、古参の幹部のジノヴィエフカーメネフと結託し、排除した。しかし、スターリンの謀略は続く。当時、党員の中には右派、つまり、現状を保ち、農村にこれ以上の手は加えず、工業は漸次的な発展を目指す立場の者が多かった。スターリンはそこから、右派の幹部、ブハーリンやルイコフと接近し、左派、つまり、農村からより多くの穀物を取り立てて、穀物の輸出を推し進め、それによって得た資金を工業の発展に充てることを主張していた派閥、つまり先述の、トロツキージノヴィエフカーメネフらを攻撃した。最終的にスターリンは、農民政策の転換の中で、右派の幹部をも失脚させ、独裁を完成させていった。

 1927年、つまりネップの終わりは、イギリスとの国交断絶がきっかけとなった。政府はこれを利用して戦争の噂を喧伝し、軍需産業への投資を集中させようとしたが、これが農民の不安を煽り、穀物の市場流通量が激減、「穀物調達危機」が発生したのである。翌年、政府は非常措置として、再びの徴発を実施した。これによって得た成果をスターリンは「評価」し、これを機に、政府は農民に対して弾圧を持って彼らを従わせる方針を取っていった。

 

5.農業集団化

 当初、農業集団化は、長期の目標として掲げられたものに過ぎなかった。事態が変わったのは、穀物調達危機の発生である。政府はこれを、穀物を大量に隠し持っている「クラーク(富農)」の陰謀だと考え、農村に武装部隊を送り込み、徴発を行った。しかし、戦争の混乱を乗り越えて数年経った程度の当時の農村にクラークなどいるはずもなく、いるのは貧農のみに等しかった。政府は反抗する農民に対して、粛清してでも徴発を行った。この農村との敵対が、スターリンの集団化政策と結びついていった。農村を、完全なコントロール下に置こうとしたのである。

 1928年5月に、スターリンは農業の集団化が穀物問題を解決すると発表した。これによって、コルホーズの形成が開始された。コルホーズとは、訳語では集団農場という意味を持つが、その内容は、作物の大半を国家に接収されるというものであり、農民からすれば地獄のような話だった。実際、コルホーズ形成後の農民は、自宅の周辺に与えられたわずかな住宅付属地のみで飢えをやり過ごした。

 政府は集団化に抵抗する農民を全てクラークだと見なし、大量の粛清を行った。この一連の集団化政策で犠牲となった農民の数は、全体で500万~700万人の規模であったと推定されている。穀物供出は農村のミールを通して決定されていたため、村全体が穀物を出し渋れば、村ごと粛清する場合もあった。

 しかし、このあまりに苛烈なやり方に、地方の共産党員も疑問を抱き始め、作業が停滞していった。1930年3月に、スターリンは「成功の幻惑」という論文を発表し、一時的な集団化の緩和を行ったが、これはむしろ農民のコルホーズからの大量脱退を招き、同年の秋には再開された。農民の逃亡も相当数報告されたため、1932年には、国内旅券制度が導入され、農民は許可なく移動することを禁じられた。

 1932年には、大規模な飢饉も発生したが、忠実なスターリン派の幹部が各地に派遣され、緩むことなく弾圧は行われた。幹部のモロトフは、播種用の穀物すら残さぬよう指示したと言われている。1933年に、スターリンは農民に対する抑圧の緩和を発表し、農業集団化は一定の区切りを見せた。最終的に、農民の約60%がコルホーズに統合されたという。

 

6.結論

 本稿ではこれまで、第二次世界大戦以前までのソ連において、農民がどのような役割を担ったのかを検討してきた。議論を概説すると、ロシア帝国時代の農村は、中世以来のミールという共同体によって運営され、生産性は芳しくなかったが、それでも少しずつ改良されていた。十月革命の前後になると農村は、戦争を終わらせ、土地を無償で分配するというボリシェヴィキの目標に賛成したが、結果としては穀物を徴発されるという最悪の手段で裏切られ、農村は必至で抵抗した。それが過ぎてネップ期に入ると、政府は農村との仲を回復させようとし、現物税の手段を取った。しかしこれは長くは続かず、穀物調達危機の発生を機に政府は再び農村を弾圧し、強制的に農業集団化を推し進めた。抵抗する農民は政府に粛清され、その数は500万~700万人に上った。

 結論としては、ソ連における農村は、国家の要でありながらも苛烈な搾取の対象とされたということである。農村は多くの犠牲者を出しながら、ミールからコルホーズへと変質し、ソ連の基礎を支え続けた。本来は、国民と統治者の関係であるはずの彼らが、どうしてここまで対立を深めたのか、歯止めが効かなかったのかは、筆者の想像力ではまだ描くことができない。この時に党員たちの内心に生まれたスターリンへの不信感が、大テロルの遠因となっていく。地獄が次なる地獄を呼ぶのである。

 

〈参考文献〉

下斗米伸夫『ソビエト連邦史 1917-1991』、講談社(講談社学術文庫)、2017年。

中嶋毅『世界史リブレット人 089 スターリン 超大国ソ連の独裁者』、山川出版社、2017年。

松戸清裕ソ連史』、筑摩書房(ちくま新書)、2011年。

梶川伸一「最近のロシア農民史研究について—農村共同体を中心に」『史林』、史学研究会(京都大学文学部内)、73巻4号、1990年、pp612-632。

 

計4060字(表題部除く)

 

[1] 農村におけるボリシェヴィキの浸透具合は、書き手によって記述が大きく異なっている。下斗米(2017)は、ボリシェヴィキは農民からも多大な支持を得たという旨の記述をしているのに対し、松戸(2011)は、ボリシェヴィキは農村に拠点を持たなかったと記している。

京戸について

 本稿は、古代日本の都城と住民について述べることを目的としたものである。そのためにまずは、古代日本の都が都城制に至るまでの過程を述べる。4世紀~7世紀後半までは、天皇の代替わりごと、あるいは天皇の指示によって遷都が行われてきた。そのため、宮(天皇の住まい)の近辺に都市が発達することはあまりなく、都は小規模であった。645年の大化の改新前後から、中央政府の権力が強化され、朝廷は律令国家体制を志向するようになった。同時に朝廷は、中国(北魏の洛陽城、唐の長安城)を手本とした都城制の都を目指し、都の規模は拡大されていった。都として初めて整備された藤原京(694-710)は、地形上の問題によって破綻し、平城京(710-784)への遷都がなされた。都城制の整備は、官僚機構の巨大化を可能にした。租税徴収や戸籍管理など、律令国家の実現のためには膨大な人員が必要であったのである。宮を中心に作られた都市、つまり京に住む住民のことは京戸と呼ばれた。

 京戸がどのような人たちによって構成されていたのかは、専門家によって意見が分かれている。まず有力なのは、有力な豪族によって担われていたという説である。特に畿内の豪族が多くの割合を占め、彼らは遷都と共に移住した。次に考えられるのは、畿外の国からやってきた住民や、遷都先の土地に暮らしていた住民が京戸に組み込まれたケースである。以前は、後者の、土着の民の登用が大半を占めていたと考えられていたが、現在は前者の説のほうが有力となっており、例外的に後者のケースを含む割合で、官僚機構は発展していったと考えられている。根拠の一つとして挙げられるのは、八色の姓(685)の実施である。この制度は、氏(ウジ)に加えて、称号的な要素が強い姓(カバネ)を与えることで、天皇に近しい氏族を固める狙いがあったと考えられている。官人の昇進においても、姓が重視されたようである。その氏族を管理する台帳は、庚午年籍(670年前後に作成)といい、律令国家体制を基礎づけた戸籍と見られている。ここには、都城制の都を作る以前から、京戸への言及があり、官人層がすでに形成されていることが分かる。

 京戸と官人の用語は、同じような意味で使われる場合が多いが、正確には同一ではない。京戸でありながら官人でない者、官人でありながら京戸でない者もいるためである。前者には、当時の「戸」という世帯の考え方が関係している。戸の成員は現在の2~3世帯を含むものであり、全員が官人として働いていたわけではないためである。おそらく、京内に宅地班給を受けた単婚家族のみが官人として出仕し、それ以外の戸の成員は郊外で農業を営んでいたと考えられている。後者は、都の外に本籍を持つ住民が官人として登用されている場合であり、任期が終わると彼らは本籍地へと帰らなくてはならないため、京貫(本籍を京内に移すこと)を願い出る者が多かったという。こうした傾向は、出身母体との繋がりが薄れた8世紀末によく見られた。元々閉鎖性の強かった京戸は、これを境に流動性を増していくこととなる。(計1240字)

『バガヴァッド・ギーター』におけるヨーガについて

1.序論

 現代においては、ヨーガとはもっぱらスポーツや健康法としての意味が強いが、本来はもっと多義的な意味を持つ言葉である。現代の意味と本来の意味の区別を付けるために、筆者は今回、『バガヴァッド・ギーター』(以下『ギーター』)におけるヨーガの意味とはどのようなものかという問いを立てて、他の用語も確認しながら、これについて説明したいと考えている。『ギーター』は、まだ授業では扱っていないかもしれないが、個人的に関心があるため、今回の課題の対象に選んだ。

 本論ではまず、『ギーター』が成立するまでの思想史を簡単に説明する。次に、押さえておくべき前提となる『ギーター』の世界観について説明し、最後にヨーガについてまとめる流れを取る。

 用語の表記については、訳語が一般的と思われる場合においては訳語を先行させ、そうでない場合はカタカナ表記のものを先に示すことにした。

 

2.『バガヴァッド・ギーター』の成立まで

 まずは、授業の振り返りを兼ねて、『バガヴァッド・ギーター』が成立するまでのインドの思想史を簡単に振り返り、議論の前提として必要な概念について説明したい。

 紀元前1500年ごろにアーリア人がインドに移住してくると、彼らは独自の宗教を打ち立てた。そうした思想や呪文は、前1200年ごろに『リグ・ヴェーダ』として編纂された。それから700年ほどをかけて、その他のヴェーダ文献が成立し、その最後に、ウパニシャッド(奥義書)と呼ばれる汎神論的性格の強い哲学書が登場した。これらの文献を生み出した思想・宗教の総体をバラモン教と呼ぶ。

 ウパニシャッドにおいては、それまでのヴェーダにおける多神教的な性格から、唯一神(原理)への移行が見られ、そうした万物の根底を成す原理、あるいは最高神のことはブラフマンと呼ばれた。対して、人間存在の規定については、自己について内省した果ての、真の自己のことをアートマンと呼び、さらに、この個人の本体であるアートマンは、最高存在ブラフマンと同一であるという「梵我一如」という考え方が成立した。こうしたウパニシャッドの考え方は、後のヒンドゥー教思想全般の要となった。

 前6世紀になると、生産や技術の発展によって、それまでの身分制度に基づく社会体制が揺らぎ、反ヴェーダ思想が登場していった。この中でも、特に仏教とジャイナ教の隆盛はすさまじく、バラモン教は変革を迫られていった。そうした変革の中で、バラモンを上位の階級に置きながらも、民衆が中心となって信仰が担われるようになり、現在まで続くこの宗教はヒンドゥー教と呼ばれるようになった。

 ヒンドゥー教においては、バラモンはよりその学問的性質を強めた。彼らは紀元前2世紀ごろに、六派哲学と呼ばれる様々な形而上学理論を持つ学派を形成し、ウパニシャッドの原則である梵我一如を唱えつつも、そこに至るまでの多様なプロセスを展開した。

 民衆の信仰においては、紀元前2世紀に『マヌ法典』が成立した。『マヌ法典』の内容は、法律や統治のあり方、各身分が果たすべき社会的役割や規律についてなど多岐に渡り、特に、ヒンドゥー教徒が目指すべき人生の四大目的が規定されたことは特筆される。その4つとは、ダルマ(義務、法)、アルタ(実利)、カーマ(愛欲)、モークシャ(解脱)の4つであり、特にモークシャは、最終的に全ての人が目指すべき最大の目標とされ、人々は輪廻の世界から解放されることを何よりも望んだ。この解脱のために、ヨーガという概念・方法が発達した。

 加えて、紀元4世紀までには、インドを代表する二大叙事詩の『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』が成立した。特に『マハーバーラタ』は、紀元前4世紀から存在が認められるようであり、この物語は、当時の思想潮流の様々な面を併せ持つ文献として、次第に発展していった。その思想的側面が最もよく表れている6巻冒頭の箇所が『バガヴァッド・ギーター』である。『マハーバーラタ』があまりに長大であるために、『ギーター』は独立した書物として扱われる。また『ギーター』は、サーンキヤ学派やヴェーダーンタ学派など、学派を超えて聖典とされる。『ギーター』はその成立の過程からして、バラモンだけに読まれる文献ではなく、万人に開かれたものだと言うことができる。このことは、本書が、階級の差を超えて救済されるというバクティや、出家することなく己の義務に専心する行為のヨーガを強調することからもうかがえる。

 当時のヒンドゥー教社会においては、最高神としての人格神には、ヴィシュヌ神シヴァ神の二柱が特に信仰された。『ギーター』においては、最高神ヴィシュヌ神であるとされている。ヴィシュヌ神は、化身として人間界に顕現するという信仰があり、『マハーバーラタ』(および『ギーター』)の登場人物、クリシュナもヴィシュヌ神の化身だとされる。クリシュナの口を通して、全ての奥義が語られる。 

 

3.『ギーター』の創成哲学、認識論

 次に、ヨーガを説明するための前提として、『ギーター』における世界観、つまり、世界がどのようにできているのか、人間はどのように世界を見ているのか、といったことについて説明している箇所をまとめる。

『ギーター』において世界を構成しているのは、プラクリティ(根本原質)という概念だと言われる。プラクリティより様々な要素(グナ)が生まれ、展開していくことで、それが世界や私たち個人、さらには、全ての現象、行為になっていくという(3・5、14・5など)。

グナと呼ばれる物質のあり方は、全部で3種類ある。サットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(暗質)の3つである。さらには、私たちの認識もプラクリティにより生じる。人間の意識や認識、知識を形成する概念も全部で3種類ある。ブッディ、アハンカーラ、マナスの3つである。

 ブッディ(知性)とは、正しい心のはたらきのことを意味する。筆者はこれを、外的に実在するわけではないが、正しい認識の根拠として存在する、プラトンにおけるイデアに近しいものとしてこれを理解した。ブッディはジュニャーナ(知識)やプラジュニャー(智慧、般若)とも言われる。これらはおおむね同義語である。

 アハンカーラ(自我、我慢)とは、己に執着する心のはたらきのことを意味する。ブッディよりアハンカーラが生まれることで、個人というものが形成される。これを取り払うことで、ブラフマンへと帰ることができると言われる。

 マナス(意、思考器官)とは、感覚に由来する心の反応を意味する。つまり、身体との結びつきが強い概念だと言える。ヨーガ学派では、これを取り払って内省を深めることで、真の自己(アートマン)へと至ることを目的としている。

 ここで留意しておく必要があるのは、精神を意味する言葉の全てが、プラクリティより生じる下位の概念というわけではない点である。サーンキヤ学派において、最高の精神的原理(アートマン)を意味する言葉は、プルシャと呼ばれる。プルシャとは、『リグ・ヴェーダ』において語られる、世界を創造した最初の人類だとされており、それが転じて、アートマンを意味するようになったのだと推測される。『ギーター』においては、このプルシャという用語は「高次のプラクリティ」と表現されている。対して、世界を構成する5元素やマナスといった概念は「低次のプラクリティ」だとされており、それらを退けることで、このプルシャ(=アートマン)と一体になることができるという(7・4-5)。付け加えておくべきこととして、プルシャとはあくまでアートマンの意味で使われることが多いだけであって、ブラフマンの意味でも使われることがある点が挙げられる(8・8など)。歴史ある概念は、意味の拡大、変質が多いため、注意して読み進める必要がある。

 

4.ヨーガとは何か

 ここからは、本題であるヨーガという概念について詳しく見ていく。『ギーター』におけるヨーガとは、ものごとを平等に見ること。転じて、ブラフマンと合一すること、またそれらを実践することだとされる。ヨーガを実践する者はヨーギンと呼ばれる。ヨーガにはいくつかの種類があるため、それらを順に説明する。

 一つ目は、知性のヨーガ(ブッディ・ヨーガ)である。これは、最高神の知識に意識を傾け、それに集中し、行為の結果への執着を捨て去ることを意味する。ヴェーダーンタ学派は、これのみを解脱の方法と考えている。知性のヨーガは、サーンキヤ(理論)とも呼ばれる。サーンキヤは、後述する行為のヨーガと対置される。ただし、同名の名を冠するサーンキヤ学派は、行為のヨーガを認める学派である。

 二つ目は、行為のヨーガ(カルマ・ヨーガ)である。これは、行為の結果に執着することなく、己に課された義務の履行に専心することを意味する。『ギーター』における知性のヨーガと行為のヨーガの違いは、本来は異なる学派の意見を一冊の本にまとめているために、内容が似通ってしまい、非常に捉えづらい。筆者なりの推測としては、知識のヨーガが、より直接的に最高神に向かうのに対して、行為のヨーガは義務の履行を通して、つまり間接的な方法を通して神の救済を願う点にあると捉えている。

 ヨーガと関わりの深い概念はほかにもある。一つはバクティ(信愛)である。これは、最高神に対して絶対的に帰依することを意味する。これを行う者は、最高神の慈悲によって解脱することができるとされる。出家せずとも、神を愛する心さえ持ち続けていれば、解脱することができるとして、この概念は民衆に広く伝わった。この概念は、行為のヨーガに類似していると推測される。もう一つは、放擲(サンニヤーサ)である。これは、前述の概念と被るが、最高神に対して全てを捨てさることを意味する。放擲はヨーガであると、本文においても言及されている(6・2)。これら用語の後ろに、ヨーガがそのまま付く場合もある。バクティと放擲は、それほどまでにヨーガの内容を示している用語なのである。

 以上の議論から、『ギーター』におけるヨーガの意味をまとめることができる。ヨーガとはつまり、バクティを捧げることで、また、神に対して全てを放擲することで達する境地のことであり、これを通して精神は、己がアートマンであることに気づき、それが、世界、つまりブラフマンと一体であることを自覚する。ヨーガとは、このようにヒンドゥー教の思想を端的に示す、難解でありながらも奥深い意味を持つ言葉であることが明らかとなる。

 

5.結論

 本論ではこれまで、『バガヴァッド・ギーター』におけるヨーガの意味について、全体を概観しながらこれを探ってきた。結論として、『ギーター』におけるヨーガとは、ブラフマンと一体化すること、つまりウパニシャッドの基本哲学である梵我一如を体現する概念であり、それに至るために、知性や行為、バクティなど様々な形式を取って行われるものであることが明らかとなった。

 本稿では、ヒンドゥー教の教えを理解するために、広く知られている『ギーター』を手がかりとして利用したが、『ギーター』は六派哲学の様々な教えを組み合わせる形で成立したものであり、場合によっては矛盾を含んだ内容となっている節がある。思想の背景である六派哲学を理解することで、より深い視座から『ギーター』を読むことができるようになると思われる。これについては、これからの課題としたい。

 

〈参考文献〉

『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳、岩波文庫、1992年。

上村勝彦『バガヴァッド・ギーターの世界 ヒンドゥー教の救済』、ちくま学芸文庫、  2007年。

早島鏡正他『インド思想史』、東京大学出版会、1982年。

番場一雄『ヨーガの思想 心と体の調和を求めて』、日本放送出版協会、1986年。

 

計4550字(表題部除く)

 

『ジェンダー・トラブル』2章3節 読書会レジュメ

 

 本文章は、海外PhDのショライさん(@phd_arai)主催の『ジェンダー・トラブル』読書会のために作成したレジュメである。ここでは自分が担当している2章3節「フロイト、およびジェンダーのメランコリー」について取り扱う。この節は、バトラーによるジェンダーのトラブルの実践について語られる。扱う対象は主にフロイトである。以下では、文章を読解するに当たって必要と思われる情報を説明していく。フロイトの理論には用語が多いため、その用語を適宜強調しながら説明を行う。

 

フロイトについて

 ジーグムント・フロイト(1856-1939)とは、「無意識」の概念を発見し精神分析を創始した精神科医、思想家である。彼は、人間は幼少期から性欲(リビドー)に溢れていると唱えた。哲学の界隈においては、現代思想を語るにあたって絶対に外せない一人とされ、ニーチェマルクスフロイトの三大巨人などと呼ばれる。

 彼の理論の中心をなしている概念は、リビドーである。リビドーは、無意識(フロイトの用語でエスという)が抱く生理的、衝動的な欲望のエネルギーのことである。快を求め、不快を避けようとするこのエネルギーは、年齢と共に発達し、自我を形成するより高度なエネルギーへと変わる。これが抑圧である。抑圧の過程の説明に、リビドーがその対象を喪失する旨(悲哀)が登場する。 

 彼は子どもの心理の発達に注目し、観察と分析を行った第一人者でもある。この領域における重要な概念に、エディプスコンプレックスというものがある。これは、子どもが、異性の親を所有しようとする欲望を諦めて、同性の親への憎しみを抑え、友好を図る超自我(自らを律したり禁じる力。道徳や良心とも言い換えられる)が出現する現象のことを指す。この名前は、登場人物皆血縁があるとは知らなかったとは言え、自分の父親を殺し、自らの母親と結婚した王、『オイディプス王』の悲劇に由来する。

 

② 本文におけるフロイトの分析、特に『悲哀とメランコリー』について

 以上の基本的な概念を説明することで、より立ち入った議論の説明を行うことができる。まず、バトラーが本文において分析するフロイトの文献は、『悲哀とメランコリー』という論文である。このタイトルにある悲哀とは、対象の喪失による正常な悲しみのことを指す。この過程を経て、リビドーの対象が切り替わる。具体的に言うと、愛する人やものを失ったとき、人は一時的にその愛の方向を失い、虚ろになるが、次第に新たなリビドーの対象を見つけ、回復していく事例などを指す。

 対して、タイトルの後半、メランコリーとは、古くはうつ病を引き起こす体液、黒体液のことを指すが、フロイトにおいては、過度な悲しみのあまりに、ある人が対象の喪失を理解できず、対象を失ったリビドーが自我に向けられる現象のことを指す。愛する対象の理想像が自我に向けられるため、自己批判的になり、自分を傷つけるようになるという。またこの現象は、自我に関心が集中するため、自己愛的な退行でもある。

 このメランコリーという用語は、本来は、精神病を説明するためにフロイトが取り入れた概念だが、後の著書、『自我とエスにおいて、子どもの発達過程にも適用されるようになる。子どもが、同性の親への同性愛を断念し、それを自己の内に取り込むということと推測される。この過程は、同性愛タブーという用語と同義である。

 タブーにはもう一つの類型がある。それは近親姦タブーであり、これは、子どもの異性の親に対する所有の欲動を抑え込む超自我、つまりエディプスコンプレックスのことを指していると思われる。また、メランコリーによって自己の内部に生まれる批判的な自我、つまり同性愛タブーによる規範意識の発生も、超自我の一種だと推測される。

 

③ 補足、疑問点(主にフロイトに対して)

去勢不安、去勢コンプレックス男児が父親から去勢されることに恐怖し、父親に従うようになる現象。言っていることがよく分からない。なぜ性器を取られると思い込むのか?男の同性愛は、自分が女になるという恐怖を感じるということ?

男根羨望…女児が自身に男根がないことを不安視する現象。イリガライが女性器の分析を展開するのは、こうした、フロイトによる男性器の優越、女性器への無視が根底にあると見られている。こちらもよく分からない。「人間の欲望はリビドー(性的な欲望)に基づいている」という前提を固持しようとしすぎただけなのでは?

フロイトの『悲哀とメランコリー』(1917)の論文は、超自我の概念が初登場した『自我とエス』(1923)よりも前であることに留意してほしい。メランコリーとは元々病気の概念である。それが発達の概念として取り入れられるということは、人間は皆一度、精神病を経て大人になることを意味する。個人的に、なんだかそれはおかしな話であるように思われる。この前提を無視して話を進めてよいのだろうか?

※2021/4/30 加筆…むしろバトラーは、こうしたフロイトが前提とした概念の馬鹿馬鹿しさを暴いたと見ることができる(誰もおかしいと思わなかったのか?)。

 

④ 当該節の要約

 フロイトは、子どもの発達過程において、二つのタブーによって、ジェンダーアイデンティティが獲得されていく様を分析している。その過程は以下のように進む。まず、子どもは両性愛を抱く。子どもはその際、主に同性の親を愛そうとするが、それが不可能なため(理由は不明)、メランコリーを起こし、自らの内に同性の親の振る舞いを同化する。そうして子どもは自らの性別を同定していき、今度は、異性への愛に集中する。しかし、その際に、同性の親が子どもの前に立ちはだかり、この異性愛は頓挫する。結果として、子どもは異性の親への愛を諦め、この二つの愛の諦め(タブー)が生み出した規範、つまり超自我が、その後の子どものジェンダーアイデンティティを定めていくこととなる。

 しかし、この過程を実在するものとして捉えることは、誤った基盤主義(本質主義)を生み出しかねない。これらの成立過程は隠蔽されている。子どもは本来、より様々な対象を愛せるのかもしれないし、自らに性別を付与する必要もないかもしれない。こうした理論による正当化、つまり法は、我々に模範像を押し付け、そこから外れぬように抑圧してくる。

 

〈参考文献〉

ジュディス・バトラージェンダー・トラブル』竹村和子訳、青土社、2018年。

・鈴村金弥『人と思想 フロイト清水書院、1966年。

フロイト「悲哀とメランコリー」『フロイト著作集6 自我論・不安本能論』人文書院、1970年(以下のサイトから、「悲哀とメランコリー」についての要約を載せているものを見ることができる。今回は時間の関係上、筆者もこの要約程度しか遡れていないため、精読とは程遠いものになっているかもしれないが、ご了承いただきたい)

https://s-office-k.com/midfreud/mourning (「喪とメランコリー」、心理オフィスK)