電子の雑煮

レポートが苦手な大学生です。苦手を克服するためにレポートを公開したいと思います。

『ヨーガ・スートラ』について

〈序論〉

 本稿では、『ヨーガ・スートラ』の要約・解説を行う。本文献を教典とするヨーガ学派は、サーンキヤ学派と兄弟的な関係にある。そのため1章でサーンキヤ学派について概説したのち、『ヨーガ・スートラ』の説明に入る。ただし、サーンキヤ学派の主要教典『サーンキヤ・カーリカー』については、資料の関係上要約しか見ることができなかったことを先に断っておく。また今回は、用語を漢訳された熟語で示すか、それとも原典のサンスクリット語の音写をカタカナで示すかの区別を厳密に付けることができなかった。そのため一般的に知られているような用語、あるいは音写で示すことに意味があると思われる用語の場合のみ、用語をサンスクリット語のものに合わせた。

 

1.サーンキヤ学派の自然哲学について

 ここでは、ヨーガ学派の教説を理解するための前提として、サーンキヤ学派が持つ自然哲学について概説する。サーンキヤ学派では、宇宙の根本原理として、二つの究極的な原理を想定する、これは一般に二元論と言われる。一つは精神的原理としてのプルシャ(真我、根本精神)である。これは無限の個数からなる個々の魂のことであり、アートマンに同じである。もう一つは、物質的原理としてのプラクリティ(自性、根本原質)である。これは、一般には物質を構成するグナ(要素)の姿で現れる。しかし本質的には、世界の全てを含むブラフマンそのものの展開物であり、見方の遠近によって表象されるものが異なると言える。物質の素材であるグナには、サットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(暗質)の三種類がある。

 プルシャとプラクリティが出会うことで、物質と魂を結ぶ統覚、つまり、私たちが認識や精神と呼んでいるものが生成される。プルシャはプラクリティに覆い隠され、グナの一つ、サットヴァからはブッディ(覚)が生じる。そのブッディによる自意識の形成によって、アハンカーラ(我慢)が生じる。肉体と心を結びつける生理的反応は、マナス(意、感覚)と呼ばれる。ヨーガ学派では、これらの精神を構成する用語は、チッタ(心)の一語で示される場合が多い。用語を詳しく区別しないのは、外界への関心を断ち切っていく作業がヨーガであり、心身における認識の区別に重きを置かなかったためと予想される。

 『サーンキヤ・カーリカー』には、世界が生成される過程は書かれていても、それが行われる理由は書かれていない。佐保田(1976)は、「プラクリティの中におせっかいな気持ちが生じ」るのが理由だと記している(p.40)。ヨーガ学派が、自らの生きる世界が生じた理由を問うことがなかったのは、プラクリティによって「現れている」だけのこの世界に、さほど価値を見出さなかったためと予想される。前提として必要な用語の説明は以上である。

 

2.『ヨーガ・スートラ』について

 ここからは本題の『ヨーガ・スートラ』について説明する。まず、もっとも簡潔にヨーガの定義を示すと、「ヨーガとは心の作用を止滅することである」(『ヨーガ・スートラ』1-2)という。この心の作用を止める段階、三昧にまで至る道筋が、本書を通して説明される。

 前述したように、人間の認識、つまり心が生じる原因は、プルシャとプラクリティの接触によって生じる煩悩の一つ、無明にある。ヨーギーは、この煩悩による束縛から逃れることで、世界の展開(生成)から免れることを理想とする。ゆえに煩悩が、ヨーガをするに当たっての最も障害となる。「煩悩には無明、我想、貪愛、憎悪、生命欲の5種類がある」(2-3)。煩悩がなぜ生じるのかの理由は語られていない。煩悩の一つ、無明は、他の煩悩の源泉であるとされる(2-4)。また無明とは、非我のものを我と、無常のものを常と取り違えることを指す(2-5)。我想とは、ブッディをプルシャと取り違えることを指す(2-6)。ブッディはプラクリティによって生じるものであり、プルシャとは本来関係がない。しかしプラクリティは不滅であり、取り違えられたブッディは死後も保持される。これは我想幻質と呼ばれる。この考えは、輪廻転生において、魂の同一性が保持される理由を補うために導入されたと推測されている(佐保田, 1976, p.57)。

 続いてヨーガの内容について説明する。「ヨーガは8部門から成る—禁戒、勧戒、坐法、調気、制感、凝念、静慮、三昧」(2-29)。

 第一段階のヤマ(禁戒)は主に対人的、対物的なダルマ(法)を指す。これには、「アヒンサー(非暴力)、サティヤ(正直)、不盗、禁欲、不貪」の5つがある(2-30)。禁欲は、性欲の節制を意味し、不貪は最低限の物資だけを所有することを意味する。いずれのルールも完璧にこなすことは難しいが、できる限りの実施を求められる。この禁戒は、ガンディーの「サバルマティ・アシュラム」における生活実践として取り入れられたことでも有名である。特にアヒンサーの概念は、ガンディーの政治理念の中核を成した。

 第二段階のニヤマ(勤戒)は、主に対自的なダルマを指す。これには、「清浄、知足、苦行、読誦、イシュワラプラニダーナ(自在神祈念)」の5つがある(2-32)。「苦行、読誦、自在神祈念」の3つは、合わせてクリヤー(行事)・ヨーガと言われる(2-1)。以上の二部門は、ヨーガを始めるに当たって、三昧へと至る準備をすること、煩悩の力を弱めることが目的である。

 先述した自在神祈念の概念はとりわけ重要である。自在神とは、多神教的な神々、ヴェーダの神々などのことを指す。自在神は穢れの無い、優れた魂を持っているとされ、グル(師)の中のグルと言われる(1-24,25)。ヨーガ学派ではグルの存在が重視されるが、この自在神祈念によって、グルの代わりとしてもよいとされる。自在神を表した聖音「オーム」を繰り返し唱え、念想することが修行の一環となる(1-27, 28)。

 第三段階のアーサナ(坐法)は、瞑想をするに当たっての座り方を、第四段階のプラーナーヤーマ(調気)は、瞑想のための呼吸のコントロール法のことを指す。座り方は安定した、かつリラックスした姿勢がよいとされる(2-46)。調気の説明は抽象的であり、文意が判然としない。とりあえず、呼吸の長さを揃えること、数を数えること、息を止めること(クンバカ)を重視する点などは読み取ることができる(2-50)。これによって、マナス(感覚)が凝念に耐えられるようになるという(2-52)。

 第五段階のプラティヤハーラ(制感)とは、諸器官が、それぞれの対象と結びつかない結果、まるで心自体が模造品のようになる状態を指す(2-54)。これは、感覚をコントロールすることで、感覚が対象に向くことを抑える状態を意味するのだと推測される。

 第六から八段階は、ヨーガの内的部門に属する領域であり、合わせてサンヤマ(綜制)と呼ばれる(3-4)。これら三部門は一続きの現象の体系を持っていて、明確に区別することができない。第六段階のダーラナ(凝念)とは、「心を特定の場所に縛りつけておく」ことだと言われる(3-1)。また、第七段階のディヤーナ(静慮)とは、「同一の場所を対象とする想念が、ひとすじに伸びていくこと」だと言われる(3-2)。凝念はマナスを一つの箇所に留め、その対象への意識を明瞭にしていく動作であるのに対して、静慮はその対象から生じた認識から連想される意識を、明瞭に連続させる動作を指すのだと推測される。「その静慮が、外見上、その思念する客体ばかりになり、自体を無くしてしまったかのようになった時が、三昧と呼ばれる境地である」(3-3)。ゆえに、第八段階のサマーディ(三昧)とは、対象のみがあって、自我が意識されない状態、今日の哲学用語で「主客未分」の言葉に近いと思われる。三昧にはこれを超えた境地、すなわち無種子三昧があり、それと比べると、こちらは有種子三昧と言われる(3-8)。

 有種子三昧には未だ、ダンマ(現象)が認識として伴っている。ヨーガの究極目標としては、この認識を止めることが目標だとされる。三昧の境地を保てるようになると、プラギャー(智慧)が生じる(1-48, 3-5)。この智慧から生じるサンスカーラ(行、残存印象)は、他の印象の発生を抑え、何の印象も発生しない境地へと至る。この段階になることで、煩悩により生じていた心は消え、アートマンブラフマンの二元性を悟るという、プルシャの本来の目的が達成される。以上の心の静止がヨーガの極地であり、無種子三昧だと言われる。

 『ヨーガ・スートラ』の3章の後半、および4章は、ヨーガを行うことによって得られるシッディ(霊能、超能力)の説明が大半である。シッディの内容は、今日の我々には信じがたく、その内容も多くが突飛である。そのため内容については割愛するが、こうした超能力の獲得に分量が割かれていること自体は一考に値する。佐保田(1976)はこれについて、「超能力のヨーガにおける意義は、綜制という心理操作の錬成の進歩の程度を計る試金石たるにある」と述べている(3-55に対する注釈)。ようは三昧の境地に至るには、超能力を獲得するほどの精神集中力が必要だということだ。本文内にも、「綜制の諸結果は三昧にとっては障害である。雑念にとってはシッディであるが」という記述があり(3-37)、シッディの獲得は、三昧の境地に至った者に付随するものであることが注意されている。シッディは、ヨーガの目的にはならないということだ。

 また、そのシッディの説明の結論部にある議論も興味深い。「ブッディのサットヴァとプルシャとの清浄さが等しくなったとき、プルシャが独存する境地が現れる」(3-55)。用語を確認すると、ブッディはプルシャとサットヴァが出会うことで、サットヴァの側に生まれるものである。これによって真我であるプルシャは覆い隠され、私たちはブッディを自己だと勘違いしてしまう。これが無明である。だがブッディは、純粋性や正しさを持つサットヴァから生まれたものであり、本来は善性を示すはずである。人は生きていく中で、ブッディもまたラジャスやタマスによって汚されていくようであり、これを取り除くことが、ヨーガの目的の一つであるとされる。ヨーガによってブッディの汚れが取り払われると、ブッディは本来のサットヴァ性を取り戻し、プルシャを観照するための状態へと移行する。これによって、本来の自己がプルシャであるという境地が出現するのだと推測される。

 加えて重要だと思われる点は、最終部の解脱についての記述である。「解脱とは、プルシャのためという目標のなくなった三グナが、自身の本源へと没し去ることである。あるいは、純粋精神であるプルシャがプラクリティに安住することだと言ってもよい(4-34)」。つまり解脱とは、三昧の境地に達した結果、グナがそれ以上の展開(生成)を行わないという状態のことである。グナが展開しなければ、あらゆる物質も、さらには心も生じることはない。一切が滅び、それ以上生まれないことにより、ヨーギーの至上の目標が達成される。

 

〈参考文献〉

佐保田鶴治『ヨーガ根本経典』、平河出版社、1976年 (『サーンキヤ・カーリカー』の要約、『ヨーガ・スートラ』の邦訳を含む)。

早島鏡正他『インド思想史』、東京大学出版会、1982年。

番場一雄『ヨーガの思想 心と体の調和を求めて』、日本放送出版協会、1986年。

 

計4370字(表題部除く)