電子の雑煮

レポートが苦手な大学生です。苦手を克服するためにレポートを公開したいと思います。

トルコの地誌を描く ―様々な歴史が溶け込む地域の特徴と課題―

 

1. 序論

 本稿は、トルコの地誌を描くことを目的としたレポートである。そのため本論では、トルコがどのような国なのかを記述していく。まずは風土の基本、気候と地形について説明する。次いでトルコの歴史を説明し、それからは、現代のトルコが抱えている問題点について検討を行う。トルコの歴史の部分を詳述したのは、トルコの地で起きた数々の歴史的事象もまた、土地の特徴だと筆者が捉えたためである。

 

2. トルコの基本情報

 まず、基本的な情報を確認する。トルコ共和国小アジア、もしくはアナトリア(ギリシア語で「日の出ずる場所」の意味)と呼ばれる地域にある国で、面積は約80万㎡(日本の約2倍の広さ)、首都はアンカラにある。国民は約8000万人おり、その内の4分の3がトルコ人、残りがクルド人、その他少数民族で構成されている。クルド人の居住はトルコ南東部に集中している(図-1)。国の定める言語にはトルコ語が、文字にはラテン文字が使われている。

f:id:oribanemituru:20211007174218j:plain

(図-1)クルド人の居住地域

 

3. トルコの気候、地形

 トルコは古代から沿岸部に都市が作られた。そのため現在でも、人口はやはり沿岸部のほうが多い(図-2)。沿岸部から離れて内陸に入ると、急に標高が高くなり、国土の大半が標高1000m前後の高原になっていることがうかがえる(図-3)。そのため内陸は、全体的に涼しい気候だと言える。対して人口の多い沿岸部は、典型的な地中海性気候となっている。これらの地域では、地中海の象徴であるオリーブをふんだんに料理に使う。一方で内陸は、ステップ気候の乾燥帯も多いが、北部などは雨が多く、農業や酪農が盛んである。そのため、内陸ではオリーブよりもバターや尾脂(羊の尾にたまる脂肪のかたまりのこと)が好んで使われており、農業の形態に応じた食文化が作られていることが分かる。また、北東部ではリンゴが取れるが、南西部ではオレンジが取れる。日本の南北の関係と同じような、多様な気候があると言える(図-4)。

f:id:oribanemituru:20211007174521j:plain

(図-2)トルコの人口密度分布図

f:id:oribanemituru:20211007174540j:plain

(図-3)トルコの標高図

f:id:oribanemituru:20211007174626g:plain

(図-4)トルコ周辺の気候図

4. トルコの歴史

 トルコの特徴はなんといっても、その歴史の長さ、住む人々の塗り替わりの多さにあると言える。その歴史の始まりは、人類史において初めて鉄を使用したとされる民族、ヒッタイト人にまで遡る。首都アンカラの北東にあるボアズキョイ村からは、ヒッタイト帝国の首都であったハットゥシャ遺跡が出土した。ここで発見された粘土板には、史上最古の和平条約が刻まれているという。

 オリエント文明に続いて、この地にはギリシア人たちが入植してきた。アナトリア西部からは、ホメロス叙事詩イリアス』の舞台であるトロイア(イリオス)が発掘されている。ギリシア本土から渡ってきた人々は、ギリシア人の中でもイオニア人と呼ばれるグループであり、本土とはまた異なる文化を形成した。最古の歴史家ヘロドトスハルカリナッソスから、最古の哲学者タレスはミレトスから、いずれもこのイオニア植民市から現れた。このため、アナトリアは文明を育む母の役割を担ったと言えるだろう。

 そうした多くの国々によって支配をうけたアナトリアは、イラン系ササン朝ペルシアと、アレクサンドロス3世の大帝国(アルゲアス朝マケドニア)を経て、ヘレニズムの時代へと至る。この地域がローマ人による支配を受け、その後ローマが分裂しビザンツ帝国となって以降、ラテン語よりもコイネー(中世ギリシア語のこと。「共通」の意)が好んで話されたことからも、この地に残ったギリシアの影響力の大きさはうかがい知ることができる。

 アナトリアの最終的な支配者であるトルコ人の起源は、中国の歴史に現れる「匈奴」と目されている。彼らは、はるばる東アジアの北部から、ユーラシアを横断してこの地に定住した、チュルク語族という言語のグループに属している。チュルク語族には他に、中央アジアの国々の言葉やモンゴル語が属する。特にコーカサス地域に住むアゼルバイジャンなどのチュルク系の民族との類似点は非常に多く、ほぼそのままに言葉が通じるという。ちなみに系統不明とされている日本語や韓国語も、地理、語彙的な関係や膠着語という共通点からチュルク語族と見なされることがある。

 彼ら遊牧民族たちは、当時の東アジアから中央アジアにかけての広い地域にわたって住んでおり、非常に高い戦闘能力を有していたとされる。その実力は、戦いに負けて逃げた先の地域を支配してしまうほどのものであった(烏孫キルギスの例)。彼らは唐代までは主に東アジアに住んでおり、中国の歴史にたびたび干渉したが、唐の崩壊前後に中央アジアに移動し、イスラム教の教えを取り込みながらその地を支配、1299年にオスマン帝国を建国した。オスマン帝国の国力はすさまじく、1453年にビザンツ帝国を征服した。オスマン帝国は、ブルサに置いていた首都を、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルへと遷都し、その名をイスタンブールと改めた。

 オスマン帝国はその規模からイスラム教の盟主とされ、数百年もの間、絶大な支配を誇ったが、欧米列強が近代化していく流れにはついていくことができず、第一次世界大戦の後には敗者として、列強による割譲を許す条約を結ばされることとなった。帝国の近代化を急いでいたトルコ軍人たちは、この不条理な条約を境に立ち上がり、トルコ革命を起こして帝位を廃位、トルコ共和国を建国して、列強による割譲の危機を防いだ。革命の中で軍部から頭角を表したムスタファ・ケマル・パシャ[1]は、革命の後、初代大統領に就任し、トルコの近代化政策を推し進めた。そのため現在のトルコでは、イスラム教において正当とされているいくつかの風習(太陰暦アラビア文字など)を国家的には採用していない。イスラム教の盟主であり、複数の民族を支配していたオスマン帝国とは対称的に、現在のトルコは世俗化と、トルコ人としての自意識の特徴を持っていると言えるだろう。ただし、近年はトルコ国内でもイスラム原理主義の人々が増えていたり、熱心に信仰する人が再び増加していたりと、「揺り戻し」の面もあると見られている。

 以上のように、トルコには非常に複層的な文化、文明が残っていると言えるが、現在住んでいるトルコ人たち当人からすれば、古代の遺産は「以前の住民の忘れ物」ぐらいに思われているようであり、文化財の保存の環境は、残念ながらあまり進んでいるとは言えない。歴史学、地誌学の観点から言えば、これらの文化の保存への働きかけが求められていると言える。

 

5. トルコという地域が抱える問題 —「クルド人問題」と「ゲジェコンドゥ」について

 先ほどからアナトリアという呼称を用いているように、この地域は別にトルコ人だけのものではない(長い歴史から見れば、彼らもまた「よそ者」である)。この地には、トルコ人とは来歴の異なる、イラン系クルド人が数多く住んでいる。彼らは特にトルコの南東部に多く、これまで再三にわたって政府に独立を求めてきた。その概略と、現在のトルコに見られる格差の問題について説明する。

 トルコ国内に住むクルド人勢力は、1970年代に「クルディスタン労働者党(PKK)」を作り、トルコからの独立を求めて活動を始めた。それに対しトルコ政府は、彼らをテロ組織だと断定し、彼らの影響が及ぶ地域の住民たち(主に一般のクルド人市民)を武装させるという手段に出た。1980年代に入って、PKKとトルコ軍の間の戦闘が激化すると、一般市民はそこから避難せざるを得なくなり、その大半が都市に流入していった。しかしこの住民の移動が、さらなる問題の引き金となる。

 そもそも都市部では、1960年代から、農村から出稼ぎに来た人々によって作られたゲジェコンドゥ(トルコ語で「夜に建てたもの」を意味する。違法建築のことを指す)の急増が深刻化しており、1980年代に入って、政府によるその違法な土地利用を容認する法令が出されたという経緯がある。ゲジェコンドゥの居住者は、この法令を境に土地の商業的利用、家屋の賃貸を始めていった。この状況下において流入したクルド人市民たちは、旧居住者が賃貸している劣悪な環境のゲジェコンドゥに住むほかなく、より貧困に苦しむことになった。さらに彼らは、トルコ人からの差別による迫害も受けるようになり、その窮状は筆舌に尽くしがたいものとなった。以上が、一連のクルド人問題についての説明である。

また、都市部に現れたゲジェコンドゥ自体も問題を多く有している。例えば、違法建築であるそれらは丈夫な作りをしておらず、災害が起きたときに甚大な被害を発生させるという点が挙げられる。そして懸念すべきことに、トルコのあるアナトリア半島は、プレートテクトニクス[2]において3つのプレートの境界となっており、日本と同様、地震が起きやすい地域となっている。現に、1999年と2020年に起きたイズミット地震では、ゲジェコンドゥにおいて甚大な被害が起きた。ゲジェコンドゥの住民たちは、あくまで都市の機能から疎外されている側であり、クルド人同様、援助が必要な人たちであることに変わりはない。

               

6. 問題の解決のために

 では、それらの問題の解決のために政府が実行していることは何なのか。これについて論じてみたいと思う。まず、クルド人問題についてだが、これにはっきりとした支援策を行ったのは、ケマル・アタテュルクの後継である改革・世俗派の「共和人民党」ではなく、保守・イスラム派である「公正発展党」が政権を取って以降のことである。彼らは帰村を求めるクルド人のために、PKKとの戦闘によって破壊された地域のインフラの再興に予算を割り当て、段階的な帰村を促している。

 これに対して世俗派は、クルド人問題について、軍を送って争いを起こしたものの、支援をすることは全くとしてなかった。その理由は先ほども説明したように、世俗派はトルコ人としての民族意識が強い、という点にあると見られる。この意識がトルコ人によるクルド人への差別につながり、支持層を通して世俗派の政策に影響を与えたのだと推測される。

 筆者としては、政教分離が損なわれるということについて、それにより生まれる損失が非常に大きくなることが予想されるため、簡単にイスラム派を支持することはできないが、一方で、宗教の代わりの紐帯となる民族意識が差別感情や優越観を生み出す原因となることも、見過ごすことはできない。ゆえに、現在は政権から降りている世俗派に必要なことは、クルド人などの少数民族もまた、同じ国民として利益を受けるべき「仲間」であることを国民に理解してもらう、ということだと思われる。対立を超え、和解しあう必要性が求められている。

 一方のゲジェコンドゥ問題については、ゲジェコンドゥが秘める可能性について考える必要があると思われる。現在の政府によるゲジェコンドゥへの対策は、古い違法建築物たちを取り除いて、その土地に新たな集合住宅を建てるプランを提示することが主である(単純に再開発によって立ち退きを命じられる場合も多い)。しかし住民の多くはそれに反対して、自分たちはここに「住む権利」があるのだと主張し、市民間の協力によって状況を改善しようと、連帯を始めている。彼らの自発的な意志を妨げてまで、排他的に都市の健全化を進めようとすることは、正しいとは言えないだろう。地震の例に見ても、その体験を語り継ぐには、住民による積極的な参加が必要である。先ほども紹介した、イズミット地震の際の被害を忘れないために作られた施設や記念碑は、そこに住まう地域の人たちの繋がりが弱く、文化的資源としての効用が低くなってしまったという指摘もあった(木村 2010, pp.51-52)。上からの改革を断行しようとするのではなく、政府と国民の双方が協力して、共同体としての機能を十全に発揮できる環境を整えることが重要である。

 

7. 結論

 本論ではこれまで、トルコの地誌を描こうと試みてきた。まずは、トルコの気候や歴史について述べ、多様な文化と複層的な歴史を持っていることを説明した。それからは、トルコという地域におけるいくつかの問題について説明し、その解決策を提案した。結論としては、トルコは多様な文化によって成り立っている一方で、ナショナリズムによる民族問題や、都市と農村の間にある格差の問題など、課題も多く残っており、それらに対処していく必要があることを確認した。

 本稿では、クルド人を独立させる方向のアプローチを提案することができなかった。理由は主に以下の三つにある。①クルド人はトルコ以外に、イラク・イラン・シリアなどの各地にも散らばっているために、政府が認めることで独立させる形であっても、各国の足並みを揃える必要があり、一国の意見だけでは実現が困難であること。②各国のクルド人たちは必ずしも同じ文化を共有しているわけではないため、それぞれのクルド人解放組織が掲げている目標が異なっており、それらを合わせる必要があるのか、それとも別の国家として独立すべきなのかを検討しなければならないこと。③彼らクルド人解放組織の一部は、シリア内戦やイスラム国との戦闘に参加して活躍しており、ロシアやアメリカから多くの支援を受けているため、冷戦以来の国際的対立の問題に巻き込まれていること。これらの問題については、より綿密かつ広範囲な背景の理解が必要になると思われるので、これについては今後の課題としたい。

 

〈参考文献〉

小川杏子「『ゲジェコンドゥ』における『居住権』運動とその背景 : トルコ共和国アンカラ市を事例に」、『アジア太平洋レビュー』、第15巻、2018年、pp.47-64。

木村周平「サステナブルな文化資源としての記憶?―トルコにおける地震の記憶から」『国立歴史民俗博物館研究報告』、第156巻、2010年、pp.39-56。

鈴木慶孝「現代トルコにおけるクルド市民への社会的排除に関する一考察―国内避難民問題に関する報告書を中心として」『法學政治學論究:法律・政治・社会』 、第99巻、2013年、pp.199-229。

鈴木董編『アジア読本 トルコ』河出書房新社、2000年。

『教育ネットひむか―国際理解:タイ・インド・トルコのくらし』http://material.miyazaki-c.ed.jp/ipa/kokusairikai/tai_indo_toruko/toruko_aramasi/IPA-kok260.htm (2021/01/17)

トルコ共和国大使館 文化広報参事官室』http://www.tourismturkey.jp/ (2021/01/17)

 

計5570字(表題部除く)

 

[1] この人物の名前は、時代によって呼び方が異なる。彼は死後、「トルコの父」を意味する「アタテュルク」という呼び名を与えられ、現在は「ケマル・アタテュルク」と呼ぶのが最も一般的とされている。

[2] 地震・火山活動・造山運動などの地球表面の大きな変動が、各プレートが固有の方向に動くために、プレートの境界で起こるという学説。