電子の雑煮

レポートが苦手な大学生です。苦手を克服するためにレポートを公開したいと思います。

京戸について

 本稿は、古代日本の都城と住民について述べることを目的としたものである。そのためにまずは、古代日本の都が都城制に至るまでの過程を述べる。4世紀~7世紀後半までは、天皇の代替わりごと、あるいは天皇の指示によって遷都が行われてきた。そのため、宮(天皇の住まい)の近辺に都市が発達することはあまりなく、都は小規模であった。645年の大化の改新前後から、中央政府の権力が強化され、朝廷は律令国家体制を志向するようになった。同時に朝廷は、中国(北魏の洛陽城、唐の長安城)を手本とした都城制の都を目指し、都の規模は拡大されていった。都として初めて整備された藤原京(694-710)は、地形上の問題によって破綻し、平城京(710-784)への遷都がなされた。都城制の整備は、官僚機構の巨大化を可能にした。租税徴収や戸籍管理など、律令国家の実現のためには膨大な人員が必要であったのである。宮を中心に作られた都市、つまり京に住む住民のことは京戸と呼ばれた。

 京戸がどのような人たちによって構成されていたのかは、専門家によって意見が分かれている。まず有力なのは、有力な豪族によって担われていたという説である。特に畿内の豪族が多くの割合を占め、彼らは遷都と共に移住した。次に考えられるのは、畿外の国からやってきた住民や、遷都先の土地に暮らしていた住民が京戸に組み込まれたケースである。以前は、後者の、土着の民の登用が大半を占めていたと考えられていたが、現在は前者の説のほうが有力となっており、例外的に後者のケースを含む割合で、官僚機構は発展していったと考えられている。根拠の一つとして挙げられるのは、八色の姓(685)の実施である。この制度は、氏(ウジ)に加えて、称号的な要素が強い姓(カバネ)を与えることで、天皇に近しい氏族を固める狙いがあったと考えられている。官人の昇進においても、姓が重視されたようである。その氏族を管理する台帳は、庚午年籍(670年前後に作成)といい、律令国家体制を基礎づけた戸籍と見られている。ここには、都城制の都を作る以前から、京戸への言及があり、官人層がすでに形成されていることが分かる。

 京戸と官人の用語は、同じような意味で使われる場合が多いが、正確には同一ではない。京戸でありながら官人でない者、官人でありながら京戸でない者もいるためである。前者には、当時の「戸」という世帯の考え方が関係している。戸の成員は現在の2~3世帯を含むものであり、全員が官人として働いていたわけではないためである。おそらく、京内に宅地班給を受けた単婚家族のみが官人として出仕し、それ以外の戸の成員は郊外で農業を営んでいたと考えられている。後者は、都の外に本籍を持つ住民が官人として登用されている場合であり、任期が終わると彼らは本籍地へと帰らなくてはならないため、京貫(本籍を京内に移すこと)を願い出る者が多かったという。こうした傾向は、出身母体との繋がりが薄れた8世紀末によく見られた。元々閉鎖性の強かった京戸は、これを境に流動性を増していくこととなる。(計1240字)