電子の雑煮

レポートが苦手な大学生です。苦手を克服するためにレポートを公開したいと思います。

中世荘園制の成立について

 荘園とは、古代・中世を通じて存在した私的土地所有の一形態である。だが荘園は、単なる私的土地所有にとどまらない公的・国家的性格を有しており、中世の土地制度を構成する荘園と公領は、異質で対立していると見るよりも、共通する部分が多くあるものと見たほうが正確である。こうした見解を「荘園公領制」と言い、1973年に網野善彦によって提起されて以降、今日の荘園研究の基本理解となっている。

 荘園の性質は、11世紀半ばまでの、主に開発領主が開発や管理を担う「免田・寄人型荘園」と、荘園整理令が発布されて以降の、院や摂関家、権威のある寺社など、荘園領主側が中心となって管理を行う「領域型荘園(寄進地系荘園)」の2種類に大別される。後者の領域型荘園とは、各地に点在していた荘園が、寄進によって有力者の元に集合した体制であり、これによって荘園の公領化が推し進められた。勝山(1995)によると、11世紀末以降、荘園の年貢史料において、賦役が「公事」と称されていることから、荘園という存在が、単なる土地・人への支配関係から、公的なものへと変質したことを意味しているという。

 ここからは、中世荘園制が成立するまでの政治過程を追う。

 朝廷は11世紀中頃より、荘園の増加による公領の減少を危惧し始めていた。長久元年(1040)、延久三年(1069)に、朝廷より荘園整理令が発布されると、事態に変化が訪れる。これらの荘園整理令によって、正式な許可を得ていない荘園は公領として扱われ、課税の対象となった。開発領主側は、収公(許可のない荘園を公領に組み込むこと)された土地を放棄し、また新たな荘園の開発を差し止められる事態となり、混乱を来たした。

 元々この頃までの荘園にも不輸不入の権利は認められていたが、「一国平均役」という例外があった。これは、内裏造営などの国家事業や行事の経費のために、公領・荘園を問わず徴税や賦役を課すという命令であり、受領が朝廷に許可をもらうことで発行することができた。この一国平均役には寺社への課税を免除する規定があったが、受領はしばしばその規定を無視し、寺社にも課税を強要するケースが少なくなかったという。

 本来免除されているはずの課税を負わされた東大寺の荘園は、このことに抗議の意を示し、朝廷に永続的な不輸不入の権利を要求して、それを獲得する。各地の荘園は、権威のある寺社や上皇などに寄進することで、より確実な不輸不入の権利を得られることに気づき、寄進が相次いだ。結果的に各荘園が大規模なものとなり、荘園が公的な領地として扱われる傾向が強くなっていった。

 こうした中世荘園の原型は、白河院の周囲の人間関係によって形成された、近江国柏原荘・越前国牛原荘にあると見られている。こうした私的縁故、人脈による荘園形成は、中世荘園全体を通した特徴となる。この、院が主導となって立荘するという特徴は、一方で院自らが荘園整理令を出して荘園を公領に合流させながら、他方で自らが所有する荘園を統合、拡大させていくこととなり、自ら矛盾を抱えたまま政策を行っていたこととなる。

 興味深い現象として、中世荘園の年貢史料にはしばしば、実態にそぐわない高い年貢高の記録が散見される。これは、荘園を形成する以前に、先に取れそうな年貢高を本家と領家が話し合いで決めていたことが理由のようであり、稼働している本免田だけでなく、荒田の再開発や開発を含めた年貢が設定されていたと目されている。(1390字)

 

〈参考文献〉

・鎌倉佐保(2013)「荘園制と中世年貢の成立」『岩波講座 日本歴史 第6巻 中世1』、岩波書店、pp.131-162。

『ヨーガ・スートラ』について

〈序論〉

 本稿では、『ヨーガ・スートラ』の要約・解説を行う。本文献を教典とするヨーガ学派は、サーンキヤ学派と兄弟的な関係にある。そのため1章でサーンキヤ学派について概説したのち、『ヨーガ・スートラ』の説明に入る。ただし、サーンキヤ学派の主要教典『サーンキヤ・カーリカー』については、資料の関係上要約しか見ることができなかったことを先に断っておく。また今回は、用語を漢訳された熟語で示すか、それとも原典のサンスクリット語の音写をカタカナで示すかの区別を厳密に付けることができなかった。そのため一般的に知られているような用語、あるいは音写で示すことに意味があると思われる用語の場合のみ、用語をサンスクリット語のものに合わせた。

 

1.サーンキヤ学派の自然哲学について

 ここでは、ヨーガ学派の教説を理解するための前提として、サーンキヤ学派が持つ自然哲学について概説する。サーンキヤ学派では、宇宙の根本原理として、二つの究極的な原理を想定する、これは一般に二元論と言われる。一つは精神的原理としてのプルシャ(真我、根本精神)である。これは無限の個数からなる個々の魂のことであり、アートマンに同じである。もう一つは、物質的原理としてのプラクリティ(自性、根本原質)である。これは、一般には物質を構成するグナ(要素)の姿で現れる。しかし本質的には、世界の全てを含むブラフマンそのものの展開物であり、見方の遠近によって表象されるものが異なると言える。物質の素材であるグナには、サットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(暗質)の三種類がある。

 プルシャとプラクリティが出会うことで、物質と魂を結ぶ統覚、つまり、私たちが認識や精神と呼んでいるものが生成される。プルシャはプラクリティに覆い隠され、グナの一つ、サットヴァからはブッディ(覚)が生じる。そのブッディによる自意識の形成によって、アハンカーラ(我慢)が生じる。肉体と心を結びつける生理的反応は、マナス(意、感覚)と呼ばれる。ヨーガ学派では、これらの精神を構成する用語は、チッタ(心)の一語で示される場合が多い。用語を詳しく区別しないのは、外界への関心を断ち切っていく作業がヨーガであり、心身における認識の区別に重きを置かなかったためと予想される。

 『サーンキヤ・カーリカー』には、世界が生成される過程は書かれていても、それが行われる理由は書かれていない。佐保田(1976)は、「プラクリティの中におせっかいな気持ちが生じ」るのが理由だと記している(p.40)。ヨーガ学派が、自らの生きる世界が生じた理由を問うことがなかったのは、プラクリティによって「現れている」だけのこの世界に、さほど価値を見出さなかったためと予想される。前提として必要な用語の説明は以上である。

 

2.『ヨーガ・スートラ』について

 ここからは本題の『ヨーガ・スートラ』について説明する。まず、もっとも簡潔にヨーガの定義を示すと、「ヨーガとは心の作用を止滅することである」(『ヨーガ・スートラ』1-2)という。この心の作用を止める段階、三昧にまで至る道筋が、本書を通して説明される。

 前述したように、人間の認識、つまり心が生じる原因は、プルシャとプラクリティの接触によって生じる煩悩の一つ、無明にある。ヨーギーは、この煩悩による束縛から逃れることで、世界の展開(生成)から免れることを理想とする。ゆえに煩悩が、ヨーガをするに当たっての最も障害となる。「煩悩には無明、我想、貪愛、憎悪、生命欲の5種類がある」(2-3)。煩悩がなぜ生じるのかの理由は語られていない。煩悩の一つ、無明は、他の煩悩の源泉であるとされる(2-4)。また無明とは、非我のものを我と、無常のものを常と取り違えることを指す(2-5)。我想とは、ブッディをプルシャと取り違えることを指す(2-6)。ブッディはプラクリティによって生じるものであり、プルシャとは本来関係がない。しかしプラクリティは不滅であり、取り違えられたブッディは死後も保持される。これは我想幻質と呼ばれる。この考えは、輪廻転生において、魂の同一性が保持される理由を補うために導入されたと推測されている(佐保田, 1976, p.57)。

 続いてヨーガの内容について説明する。「ヨーガは8部門から成る—禁戒、勧戒、坐法、調気、制感、凝念、静慮、三昧」(2-29)。

 第一段階のヤマ(禁戒)は主に対人的、対物的なダルマ(法)を指す。これには、「アヒンサー(非暴力)、サティヤ(正直)、不盗、禁欲、不貪」の5つがある(2-30)。禁欲は、性欲の節制を意味し、不貪は最低限の物資だけを所有することを意味する。いずれのルールも完璧にこなすことは難しいが、できる限りの実施を求められる。この禁戒は、ガンディーの「サバルマティ・アシュラム」における生活実践として取り入れられたことでも有名である。特にアヒンサーの概念は、ガンディーの政治理念の中核を成した。

 第二段階のニヤマ(勤戒)は、主に対自的なダルマを指す。これには、「清浄、知足、苦行、読誦、イシュワラプラニダーナ(自在神祈念)」の5つがある(2-32)。「苦行、読誦、自在神祈念」の3つは、合わせてクリヤー(行事)・ヨーガと言われる(2-1)。以上の二部門は、ヨーガを始めるに当たって、三昧へと至る準備をすること、煩悩の力を弱めることが目的である。

 先述した自在神祈念の概念はとりわけ重要である。自在神とは、多神教的な神々、ヴェーダの神々などのことを指す。自在神は穢れの無い、優れた魂を持っているとされ、グル(師)の中のグルと言われる(1-24,25)。ヨーガ学派ではグルの存在が重視されるが、この自在神祈念によって、グルの代わりとしてもよいとされる。自在神を表した聖音「オーム」を繰り返し唱え、念想することが修行の一環となる(1-27, 28)。

 第三段階のアーサナ(坐法)は、瞑想をするに当たっての座り方を、第四段階のプラーナーヤーマ(調気)は、瞑想のための呼吸のコントロール法のことを指す。座り方は安定した、かつリラックスした姿勢がよいとされる(2-46)。調気の説明は抽象的であり、文意が判然としない。とりあえず、呼吸の長さを揃えること、数を数えること、息を止めること(クンバカ)を重視する点などは読み取ることができる(2-50)。これによって、マナス(感覚)が凝念に耐えられるようになるという(2-52)。

 第五段階のプラティヤハーラ(制感)とは、諸器官が、それぞれの対象と結びつかない結果、まるで心自体が模造品のようになる状態を指す(2-54)。これは、感覚をコントロールすることで、感覚が対象に向くことを抑える状態を意味するのだと推測される。

 第六から八段階は、ヨーガの内的部門に属する領域であり、合わせてサンヤマ(綜制)と呼ばれる(3-4)。これら三部門は一続きの現象の体系を持っていて、明確に区別することができない。第六段階のダーラナ(凝念)とは、「心を特定の場所に縛りつけておく」ことだと言われる(3-1)。また、第七段階のディヤーナ(静慮)とは、「同一の場所を対象とする想念が、ひとすじに伸びていくこと」だと言われる(3-2)。凝念はマナスを一つの箇所に留め、その対象への意識を明瞭にしていく動作であるのに対して、静慮はその対象から生じた認識から連想される意識を、明瞭に連続させる動作を指すのだと推測される。「その静慮が、外見上、その思念する客体ばかりになり、自体を無くしてしまったかのようになった時が、三昧と呼ばれる境地である」(3-3)。ゆえに、第八段階のサマーディ(三昧)とは、対象のみがあって、自我が意識されない状態、今日の哲学用語で「主客未分」の言葉に近いと思われる。三昧にはこれを超えた境地、すなわち無種子三昧があり、それと比べると、こちらは有種子三昧と言われる(3-8)。

 有種子三昧には未だ、ダンマ(現象)が認識として伴っている。ヨーガの究極目標としては、この認識を止めることが目標だとされる。三昧の境地を保てるようになると、プラギャー(智慧)が生じる(1-48, 3-5)。この智慧から生じるサンスカーラ(行、残存印象)は、他の印象の発生を抑え、何の印象も発生しない境地へと至る。この段階になることで、煩悩により生じていた心は消え、アートマンブラフマンの二元性を悟るという、プルシャの本来の目的が達成される。以上の心の静止がヨーガの極地であり、無種子三昧だと言われる。

 『ヨーガ・スートラ』の3章の後半、および4章は、ヨーガを行うことによって得られるシッディ(霊能、超能力)の説明が大半である。シッディの内容は、今日の我々には信じがたく、その内容も多くが突飛である。そのため内容については割愛するが、こうした超能力の獲得に分量が割かれていること自体は一考に値する。佐保田(1976)はこれについて、「超能力のヨーガにおける意義は、綜制という心理操作の錬成の進歩の程度を計る試金石たるにある」と述べている(3-55に対する注釈)。ようは三昧の境地に至るには、超能力を獲得するほどの精神集中力が必要だということだ。本文内にも、「綜制の諸結果は三昧にとっては障害である。雑念にとってはシッディであるが」という記述があり(3-37)、シッディの獲得は、三昧の境地に至った者に付随するものであることが注意されている。シッディは、ヨーガの目的にはならないということだ。

 また、そのシッディの説明の結論部にある議論も興味深い。「ブッディのサットヴァとプルシャとの清浄さが等しくなったとき、プルシャが独存する境地が現れる」(3-55)。用語を確認すると、ブッディはプルシャとサットヴァが出会うことで、サットヴァの側に生まれるものである。これによって真我であるプルシャは覆い隠され、私たちはブッディを自己だと勘違いしてしまう。これが無明である。だがブッディは、純粋性や正しさを持つサットヴァから生まれたものであり、本来は善性を示すはずである。人は生きていく中で、ブッディもまたラジャスやタマスによって汚されていくようであり、これを取り除くことが、ヨーガの目的の一つであるとされる。ヨーガによってブッディの汚れが取り払われると、ブッディは本来のサットヴァ性を取り戻し、プルシャを観照するための状態へと移行する。これによって、本来の自己がプルシャであるという境地が出現するのだと推測される。

 加えて重要だと思われる点は、最終部の解脱についての記述である。「解脱とは、プルシャのためという目標のなくなった三グナが、自身の本源へと没し去ることである。あるいは、純粋精神であるプルシャがプラクリティに安住することだと言ってもよい(4-34)」。つまり解脱とは、三昧の境地に達した結果、グナがそれ以上の展開(生成)を行わないという状態のことである。グナが展開しなければ、あらゆる物質も、さらには心も生じることはない。一切が滅び、それ以上生まれないことにより、ヨーギーの至上の目標が達成される。

 

〈参考文献〉

佐保田鶴治『ヨーガ根本経典』、平河出版社、1976年 (『サーンキヤ・カーリカー』の要約、『ヨーガ・スートラ』の邦訳を含む)。

早島鏡正他『インド思想史』、東京大学出版会、1982年。

番場一雄『ヨーガの思想 心と体の調和を求めて』、日本放送出版協会、1986年。

 

計4370字(表題部除く)

ポスト・スターリン期における権力闘争と「雪どけ」

 

1.序論

 本稿は、スターリンが亡くなった後のソ連において、政治や社会がどのように変化していったのかを検討するためのレポートである。したがって本論においてはまず、スターリンが亡くなる直前のソ連の状況を説明する(第2章)。その後、スターリンの腹心である幹部らについて説明し(第3章)、その中から特にベリヤが躍進したことを追ったのち(第4章)、ベリヤが排斥され、フルシチョフがトップに立つまでを概説していく(第5章)。

 

2.スターリンの死

 1953年3月、スターリン脳卒中で亡くなった。晩年のスターリンは猜疑心を強め、寝室に誰も入らないよう指示していたため、病状の発見が遅れたのである。スターリンが亡くなる直前のソ連の状況は、最悪と言っても差し支えない様相であった。第二次世界大戦の「勝利の陶酔」によって自由化を求めた民衆の運動は徹底的に潰され、西側諸国との間には「冷戦」が始まっていた。53年1月に、スターリンの担当医師9人が彼を暗殺しようとしたとして逮捕される「医師団事件」が起きると、国内の不安はさらに加速する。逮捕された医師の多くがユダヤ人であったことが、人々に大テロルの再来をさらに予感させたのである。48年にイスラエルが建国されて以降、ソ連内のユダヤ人は出国の恐れがあるとして、反ユダヤ主義キャンペーンが行われており、ユダヤ人粛清の雰囲気が強い状況下にあった。

 

3.集団指導体制の確立、諸幹部の様相

 スターリンが亡くなった後の幹部会では、今後の指導方針が話し合われた。幹部たちは集団指導体制を構築していくことを確認し、首相マレンコフ、内相ベリヤ、党書記フルシチョフを中心に、ポスト・スターリンの体制を構築していった。また幹部会ビューローが廃止され、以前の政治局の規模に戻された。よって、古参幹部のモロトフとミコヤンが指導部に復帰した。以下では、当時の指導部にどのような幹部がいたのかを、簡単に説明したい。

 まず重要なメンバーは、前述したマレンコフ、ベリヤ、フルシチョフら、いわゆる新顔の幹部らである。最終的な勝者フルシチョフは、クルスク生まれのウクライナ人であり、一方のマレンコフはマケドニア移民である。両者は独ソ戦において大きな活躍を見せ、晩年のスターリンによって引き立てられた。

 ベリヤはグルジア系の一部族、ミングレル人の出身であり、秘密警察の長官を務めていた。彼は大テロルの実行を担ったエジョフの後任としてこの役職に就き、その後の虐殺を主導した。また彼は当時ソ連が躍起になっていた核兵器開発の部長も務めており、重要な人物であったことは間違いないが、スターリンの最晩年の頃(50~52年)には冷遇を受けた。スターリンはベリヤを失脚させるために、彼の出身であるミングレル人をあらぬ疑いで逮捕し、その責任をベリヤに押し付けるなどの行動に出た(ミングレリア事件)。ただしベリヤは、ミングレル人の出身でありながらも、彼らと友好的な関係にあったわけではなく、むしろ責任を擦り付けられないように自ら秘密警察を動かし、ミングレル人への抑圧自体を隠蔽しようとしたと目されている。

 ベリヤとマレンコフは、戦後の文化批判を主導した幹部のジダーノフが48年に亡くなった後、結託してジダーノフ派を排除する動きを見せた。これには、ジダーノフ派がロシア民族主義を掲げていたことが、非ロシア系の幹部にとって不都合だったという背景があると考えられており、これによって数千人が逮捕されるという事件へと発展した(レニングラード事件)[1]。この事件による欠員で幹部候補へと昇進したのが、後に幹部として躍進するスースロフである。

 最も古株なのは、スターリンの右腕として20年代から長く活躍してきたモロトフである。彼は首相兼外相として辣腕を振るい、独ソ不可侵条約や日ソ中立条約を締結したことで知られる。しかしモロトフは戦後、急速にスターリンの信用を失い、幹部会から外されるなどの処分を受けた。この失脚の背景には、スターリンが体調を崩していた際に、代わりに政務を担ったことや、西側諸国に対する、ある程度寛容な態度(これがスターリンには行き過ぎに見えたらしい)、婦人がユダヤ人であり抑圧を受けたことなどが重なっていると見られる。その他、彼の詳細な活躍は下斗米(2017)に詳しい。

 残る幹部はミコヤンである。彼もまた古参の幹部であり、貿易大臣に相当する職を30年以上務めた。彼はフルシチョフによる「スターリン批判」の際も早くからその肩を持ち、反党グラード事件以降も幹部の中で唯一その席を守った。彼は、ソ連の歴史を通して最も長く幹部の席に残り続けた人物だと言える。彼の出自はアルメニアにあり、また弟には、ソ連の主力戦闘機を開発する航空機設計企業MiGの設立者、アルテム・ミコヤンがいる。

 以上が、主要な党官僚の説明である。彼らによる集団指導体制は、同時に権力闘争の様相を見せていく。しかし彼らの闘争は、これまで取られてきたような抑圧ではなく、解放という形で国民に明かされていく。「雪どけ」の時代である。

 

4.「雪どけ」の時代

 集団指導体制の中から先駆けて行動を見せたのは、内相のベリヤであった。彼は秘密警察による独自の情報網を持っており、他の幹部より国民の訴えを把握しやすい立ち位置にあった。彼は国民の解放を求める流れを汲み取り、急速な改革を展開した。彼はまず、53年3月に大規模な大赦、すなわち刑の軽い犯罪者の解放や刑期の軽減を発表した。当時、ソ連強制収容所には約240万人もの人が捕まっており、その半数もの人々が順次解放されていくこととなった。ただし、大赦による急激な労働人口の増加は、職にあぶれる人の増加も招き、結果として犯罪率の上昇など、社会不安の悪化も引き起こした面もあると言える[2]

 また、ベリヤは医師団事件を捏造だったとして取り下げ、加えてソ連第二次世界大戦後に併合した東欧諸国に対する抑圧を緩和し、現地の裁量を認める姿勢を打ち出した。こうしたベリヤによる急速な改革路線、つまり非スターリン化の兆候に対しては、反発する幹部も多く、幹部会におけるベリヤ排斥の機運は次第に高まった。同年6月、東ドイツのベルリンにおける労働者ストライキが暴動に発展し、市民に死傷者が出ると、幹部会はベリヤの政治方針への反発をより強めるようになり、同月にベリヤの逮捕に踏み切った。当時ベリヤは治安の悪化への対処を理由に、モスクワに内務省が管理する軍隊を集中させており、それがクーデターの陰謀だと捉えられたのである。結局ベリヤは同年12月に処刑された。

 以上の流れで気になることは、ベリヤという大量粛清を担った人物が、なぜここまで急速な改革を行ったのか、という点である。岡本(2018)はこれについて、「大テロルの責任者として自分が追求されるのをそらす狙いがあったのではないだろうか」と述べている(p.151)。筆者としてはそもそもの問題として、幹部たちはスターリンの命令に忠実に従いながらも、その実彼の命令に心までも納得しているわけではなかったのか、この点が気にかかっている。これについて下斗米(2017)は、「モロトフだけがスターリンの死を心から悼んだ」と述べている(p.189)。独裁者を支える幹部たちであっても、人物にまで心酔していたどうかは別問題なようだ。事実、「雪どけ」の空気はベリヤの処刑後も留まることはなく、残りの指導部によって、いっそう推し進められていった。

 改革の波は農業政策にも及んだ。食糧問題は、抑圧による農民の意欲の減退などによって戦後になっても解決しておらず、国民を飢餓から救うことは政府の急務であった。指導部は53年4月に穀物調達価格の引き上げを行い、食糧問題に取り組むが、それでも国営商店だけでは供給が間に合わず、8月に宅地付属地における副業、つまりコルホーズ市場用の農産物生産の容認を行った。それまで宅地付属地は、戦後の引き締め政策によって管理を厳格にされており、厳しい税制が取られていたが、それも次第に緩和されていくこととなった。加えてマレンコフやミコヤンは、9月に食品加工や紡績などの軽工業への転換方針を打ち出した(ただしこれはフルシチョフの重工業路線とは対立することとなった)。食糧問題はこの期を境に改善の兆しを見せていく。

 

5.フルシチョフの攻勢

 ベリヤを排除した後の指導部では、マレンコフとフルシチョフが権力闘争を展開し、結局フルシチョフが勝利することとなった。ここではその流れを簡単に見ていく。

 集団指導体制は当初、首相のマレンコフが名目上のトップとして始まった。彼は新体制の当初から「個人崇拝」、つまりスターリン崇拝を批判しており、非スターリン化を率先して行おうとしていたと見られている。

 対して共産党第一書記のフルシチョフは、当初ベリヤの政策を「スターリン路線からの乖離」として批判しており、既存の路線を変えるつもりはなかったと見られている。フルシチョフの「スターリン批判」の傾向は、マレンコフを辞任に追い込んで以降、急速に表舞台に現れる。こうした彼の態度の変遷には、世論の流れを汲んでのことや、同僚の名誉回復を求める自派の古参ボリシェヴィキらの強い要望などが、その背景にあるのと同時に、モロトフなどの親スターリン派を排除するために展開されたものだと見ることができる。逆説的に、マレンコフと権力闘争を繰り広げていた頃のフルシチョフスターリンに対する態度はその過渡期にあり、非常に曖昧なものだったと言える。

 フルシチョフは農業政策の担当として、54年1月に食糧問題を解決するための処女地開拓政策を提案する。このために動員されたコムソモール(共産党青年部)員の熱意は非常に高く、数十万人もの若者が、カザフスタンや西シベリアなどの未開の極地へと赴いた。結果的にこの政策は一時的な成功を見せ、フルシチョフの求心力は非常に高まることとなった。ただしこの政策は、コムソモール員をずっと農業に従事させることは不可能なので、一時しのぎに近い政策でもあった。開拓地が不作に見舞われると、途端に国内は穀物不足に陥った。

 この政策の影響で権力を固めたフルシチョフは、マレンコフが48年に引き起こしたレニングラード事件を再捜査し、これを攻撃の材料としてマレンコフを追い込んだ。55年2月にマレンコフは辞任し、後続の首相にはフルシチョフ派のブルガーニンが就任した。そしてフルシチョフは、56年2月の第20回党大会で「スターリン批判」を秘密裏に発表し、少しずつ大きな波紋を広げていくこととなる。

 

6.結論

 本稿ではこれまで、ポスト・スターリン期における雪どけと権力闘争の進展について論じてきた。結論として、この時期以降社会的抑圧が緩和され、密告による逮捕への恐怖などから、人々はようやく解放される運びとなった。また、党幹部による権力闘争の結果フルシチョフが勝利し、新たなる指導者が権勢をふるうこととなった。これ以降にも反党グループ事件など、権力闘争はまだまだ続くが、ここまでを見るだけでも、スターリン以降のソ連がどのように姿勢を転換したかの一端は知ることができるように思われる。

 

〈参考文献〉

・岡本和彦(2018)「書評論文 スターリン批判の始まりと帰結に関する一考察 ―和田春樹 『スターリン批判 1953~56年 一人の独裁者の死が、いかに20世紀世界を揺り動かしたか』作品社、2016年」『東京成徳大学研究紀要-人文学部応用心理学部-』、第25号、149~160頁。

・下斗米伸夫(2017)『ソビエト連邦史 1917-1991』、講談社学術文庫

・中嶋毅(2017)『世界史リブレット人 089 スターリン 超大国ソ連の独裁者』、山川出版社

松戸清裕(2011)『ソ連史』、ちくま新書

 

計4590字(表題部除く)

 

[1] 共産党幹部の多くが非ロシア系だったという事実は、戦前の共産党民族主義とは異なる信念の下で動いていたことを強く実感させるものであり、粛清自体は認められるものではないが、興味深いソ連の特徴だと見ることができる。

[2] 松戸(2011)、91頁。

卒論を書く中でモヤモヤしていること(レオ・シュトラウスについて)

 卒論を書き進める中でもやもやしたことがあったので、一度文章化してスッキリさせたいと思います。私が何について悩んでいるのかというと、卒論で扱おうと思って調べた、レオ・シュトラウスという人物の思想についてです。

 まず、私はプラトンの『国家(ポリテイア)』の「高貴な嘘」というテーマで卒論を書いています。そして、レオ・シュトラウスという人物は、いわゆる戦後のアメリカで勃興した政治哲学の初期の中心となった人物です。この人は、政治を顧みるに当たって、古典が大事だと考えたため、政治に関する古典を読んでは、あーでもないこーでもないと議論を残しました。で、その議論の中で、彼が『ポリテイア』をよく取り上げているために、私も調べることになったのです。

 この彼が残した議論が厄介なんです。簡単に説明します。まず彼は、古典の書物にそのままのことが書いてあるとは考えませんでした。バカ正直に書くと弾圧されたり誤解されたりして面倒だからです(んなアホなって言わないで)。ですから、そういう古典には言外の意味が隠されています。古典を読む人々は、その隠された意味を探しながら、その人になりきって読むのが正しいそうです。要は、かなり恣意的な解釈を古典にバンバン投げつけたわけですね。古典の研究者たちからすればいい迷惑です。マイモニデスという中世の哲学者なんかは特に誤解が広まってしまったらしく、研究者の皆さんはその弁明に追われました。この文章に対する隠蔽性は彼のモットーらしく、彼の著作自体もかなり難解です(マジでやめてくれ)。

 で、プラトンもその一人に選ばれ(てしまい)ました。彼の解釈によると、『ポリテイア』において、哲人王は真実を愛しているのに、「高貴な嘘」をつかなくてはならないのは矛盾しているので、『ポリテイア』は哲学者と政治家の両立不可能性を表しているそうです。この意見はかなり無理があります。取り上げられても、議論が難解なので足蹴にされて終わりです。

 しかし彼にはなかなかどうして人気があるようです。邦訳も簡単に手に入りますし、同僚の研究者からのウケはかなりいいです。有名どころだと、あのハンナ・アーレントとかも彼のことを絶賛しています。なんで?って思うのですが、実際そうなので仕方ありません。詳しくは彼の英語版のWikipediaを読んでみてください(英語読めねーよという方は、私に連絡を下さればディープルに突っ込んで変なとこ直したやつをお渡しします)。交友関係かなり広いです。

 弟子も多いです。これが一番曲者です。ただ変な解釈をしてるだけならそんなに問題にはなりません。勝手にやってろというだけで済みます。ただ、彼の周辺人物にはあまりよくない噂があるのです。それは、シュトラウスが亡くなって20年ほど後の2003年に起きました。イラク戦争です。当時のアメリカの国防長官は、シュトラウスの下で長年政治学を研究したウォルフォウィッツという人物でした。彼は新保守主義、通称ネオコンという知識人グループに属しており、このネオコンの人たちは皆、シュトラウスをかなり敬愛しているようです。このネオコンたちは、アメリカの政策決定に間接的に強い力を持っています。官僚を育てたり、ご意見番として政策に関われるからです。このネオコンたちの思想の核に、シュトラウスがいるとしたら?大変です。彼らはヘゲモニー国家だったころのアメリカに強い憧憬を抱いています。「Make America Great Again!」を地で行く人たちです。彼らの思想とシュトラウスにどれほどの関係があるのか、これはよく精査しないといけません。

 個人的には、彼の文章はめちゃくちゃ難解で大半の人間には何を言っているのか分からないと思うので、なんかわかんないけど難しそうでカッコいい!と祀り上げられてるだけだと思っています。衒学趣味というやつですね。

 また、シュトラウス研究者は皆、このネオコンとの関係を否定しているらしいです。これも変な話なんですが、彼の政治哲学は現実の政治に作用するものではなく、政治的なものを捉え直すものらしいです。ゆえに、現実の政治には関わらないと。その逃げはどうなんでしょうね?私には少し分かりかねます。

 弟子の話に戻ります。彼の弟子には、アラン・ブルームという大学教授と、ソール・ベローという作家がいます。これがまた彼の評価を難しくします。

 まずブルームは、1980年代に、あるミリオンセラーを記録しました。本のタイトルは、『アメリカン・マインドの終焉』です。内容はというと、当時の若者の退廃を嘆き、若者文化をけちょんけちょんにけなしている本です。なぜこんな本がミリオンセラーになったのでしょう?もちろん真面目な部分もあります。そこでは、「大学は実学を学ぶところではなく、真に学問を学ぶところだ」という旨を繰り返しています。これが資本主義大国のアメリカで大ヒット?うーん信じがたい。しかし、肩身の狭い人文学の古典を学んでいるのは私も同じです。この本を読んでいると、私はどうにも彼に感情移入してしまって、彼を責めようという気になれません。エモい本ではあると思います。また彼は、『ポリテイア』の英訳を刊行しています。これは比較的まともな訳のようで、授業なんかでもたびたび参照されています。しかし一方で、彼はシュトラウス一番の弟子なわけで、シュトラウスの研究書も多く出しています。彼の中で「古典を読む」という行為がどうなっているのか、気になるところです。

 もう一人の弟子、作家のソール・ベローは、2005年にノーベル文学賞を受賞しています。私はまだ彼の小説を読んだことがないのですが、評判を聞く限りだと、かなり衒学的な文体で、凝った話を書くようです。それを聞いただけで読む気が失せます。書き忘れていたのですが、ブルームの書いた『アメリカン・マインドの終焉』は、ブームになったあと、言語学者ノーム・チョムスキーや、古典学者兼倫理学者のマーサ・ヌスバウム(聞き馴染みがないかもしれませんが、アマルティア・センと共にノーベル経済賞を受賞したことなどで有名な学者さんです)などの大物たちから、大反論を食らいました。ベローはそのことに対して、『ラヴェルスタイン』という小説を書いて、ブルームを擁護しています。ノーベル賞を獲るほどなのですから、ベローの小説はきっと評価に値するものなのでしょう。しかし彼の問題意識の根源は、シュトラウスの下での学びがその基礎になっているのです。シュトラウスのことを、私はどう評価したらよいのでしょうか。

 こんなものでしょうか。今日はもう夜も遅いので、いったん書くのをやめようと思います。シュトラウスを読んだことがあったりする方、どうか私と一緒に悩んでみませんか。連絡お待ちしています。

『モナドロジー』における自由意志の存在について

2年生の時に作ったレポートなのですが、2年ぐらい放ってしまいました。結構頑張って作った記憶があるので、読んでいただけると泣いて喜びます。

1.序論

 本稿は、『モナドジー』を主なテキストとしながら、ライプニッツへの理解を深めることを最終的な目標として作成されたレポートである。ライプニッツの主張によると、世界は神によって予定調和されており、未来は決定されているという。筆者の疑問は、その決定論の世界において、自由意志を持つものは存在するのか、ということである。そのため本論では、前提となる概念について説明をしながら、最終的にこの問いに向かっていきたいと思う。議論は主に、モナドと予定調和についての簡単な説明をしてから、神の理性とモナドの理性の関係性、真理の存在について言及し、そこから、本稿の問いである自由に関する考察を行う流れで進む。この問いに強く関わらない部分(精子的動物、魂の不死性、充足理由律など)については言及し切れなかったが、『モナドジー』におけるライプニッツの議論の大枠は拾えたと考えている。

 

2.基本的概念の確認

2-1.モナドについて

 本稿の問いへと至るには、いくつかの前提となる説明が必要となるだろう。まずは、モナドや予定調和といった、基本的な概念から確認したい。

 モナドとは、世界を構成する最小単位のものであり、物質的存在と精神的存在の双方を成す。モナドには部分がなく、延長といった物質的な要素を持たないがゆえに、精神的な実体である。世界を構成する物質は、そうしたモナドの複合体としての姿である。現れたり消えたりしているように見えるのは複合体であり、単純な実体は生まれも滅びもしない。そして、複合体に様々な性質や形状がある以上、モナドもまた、様々な性質を各々が別様に保持している事になる。そう考えると、モナド論は「モナドだけがある」という点では一元論となり、「モナドには一つとして同じものがない」という点では多元論となる。

 

2-2.予定調和について

 次に予定調和について説明する。予定調和とは、それらあらゆるモナドが、互いの不可侵性を保ったままに、内的に変化し調和するという神の決定のことを指す。これは決定論の立場を取る概念だが、同時に自由意志の保持も許されている。これについては後述する。ライプニッツの世界観では、あらゆる部分はモナドであり、神そのものではない。神はアリストテレスにおける「不動の動者」のように、原因と結果の関係として干渉してくるのであり、世界はむしろ遍く精神の世界、「汎心論」なのであって、神はそれら「心(モナド)」の設計者かつ動力源の役割を担う。モナドは、神の働きを受け取る一点の力場だと説明することができる。

 

2-3.理性的魂(精神)、必然的真理(普遍の真理)について

 モナドは、表象の判明度によってその役割が異なっている。大半のモナドは物質をなしており、それらはエンテレケイアと呼ばれる。経験を記憶し、表象を知覚するほどとなったモナドは(感覚的)魂となり、理性の一端を表出する。それらは植物や動物の魂になるとされる。そして、さらに高い理性は、反省という作用によって、モナド自身の内面から必然的な原理を認識することによって引き出される。それらの原理は経験に依らずして把握されるのであり、これによって感覚的魂はより鮮明な表象を得て、神の限りなさを、永遠の真理を知る理性的魂、すなわち精神と変化する。つまり、モナド保有する理性は、反省によって神の理性に近いところまで高めることが出来る。これにより、神の理性とモナド(人間)の理性[1]が絶対的に分かたれているのではなく、漸進的な関係性にあることが導き出される。

 また、このモナド論は、物質に対する精神の絶対性を説いたデカルトの説に反対する、心身一致の立場を取る。デカルトの説の不具合は、その優位な精神がどのように物質に干渉するのかを明確に説明できない点にある。一方のライプニッツにおいては、そのような心配はない。先ほども述べたように、各モナドにはそれぞれの理性の幅があり、理性的魂は支配的モナドとして自我、思考、認識を担い、それ以外のエンテレケイアは被支配的なモナドとして、複合体としての肉体やその他の物質の役割を果たす(『モナドジー』§70参照)。つまり、精神の優位性は非物質性に因るものではなく、理性を表出する判明度で分けられているというのが、彼の主張である。

 

2-4.偶然的真理(事実の真理)について

 上記の説明においては、経験に拠らない真理の存在を確認した。ライプニッツはさらに、経験や理由といった世界の内部の性質もまた、事実の真理として存在すると主張する。事実の真理の特徴は二つある。一つは、永遠的、必然的な真理においては、その反対のものは不可能であるが、事実の真理においてはその反対が可能であり、その真理は偶然的なものとなるということだ(同上§33)。もう一つは、そうした偶然的真理の存在は、必然的真理の存在によって導き出されるということである。

 偶然的世界の中には、物事の推移や原因を説明するだけの十分な理由を見て取ることができる(同上§36)。換言すると、ある偶然的な事物の連続を「○○が原因となって××が起きた…」という無限に続く玉突きのように、因果関係に還元して分析するということである。ここにおいて注意すべきことは、この関係性を唯物論として捉えてはならないということである。もし精神、すなわち心の機微までもが物質だとすると、物質は受動的であることしかあり得ないため、結果的にこの考えは理性的存在の自由意志を否定することになってしまう。世界が偶然であることは、必ずしもそういった存在に自由意志を認めるわけではない。よって、自由意志を認めようとするならば、世界には心的な性質が存在するということになる。

 また唯物論には、あらゆる理由を辿っていったとして、存在の理由に当てはまるものは存在するのか、という問いも発生する。答えはもちろんノーであり、存在の始点より以前に存在があることはありえない。よって、そこには存在を超越した存在である神が置かれる。このように、世界(偶然的真理)は、神(必然的真理)の存在があって初めて導き出される(同上§37,§38)。

 

3.自由意志について

 先の説明によって、世界には心的な性質が存在することと、偶然的な世界は必然的な神の存在によって定められていることが明らかになった。ここからは、上記の前提となる情報を用いて、自由意志の存在を認めるライプニッツ独自の主張を確認したい。

 

3-1.偶然的世界における自由意志

 まず論じたいのは、偶然的世界においての自由、すなわち関係においての自由についてである。関係とは、上記の前提のように、世界は心的存在の関わりによってなされるということ、すなわち諸モナドの複合関係のことを指す。

 世界を構成する諸モナドは、理性の幅によって支配関係が定められている。そして、必然的真理を観照する理性的魂は支配的モナドの働きを成すため、被造物でありながら、本来は神のみが有する能動性を分け持つ。ライプニッツ自身の言葉ではこのように説明される。

 

被造物は、完全性をもつかぎり外部に能動作用を及ぼすと言われ、不完全である限り他の被造物から作用を受けると言われる。それで、モナドが判明な表象を持つ限りそれに能動作用を認め、混乱した表象を持つ限りそれに受動作用を認める(同上§49)。

 

そして、このような必然的真理を分け知る精神は、能動的関係として世界と関わり、被造物を操るだけの力を持つ。それは神と類似した役割を果たすため、ある種の「小さな神」と称される。こちらも引用を引く。

 

通常の魂と精神のあいだには多くの差異があって、その一部はすでに述べたが、なお次のような差異がある。魂一般は、被造物の宇宙の生きた鏡ないしその似姿であるが、精神はそのうえに、神そのもの、自然の作者そのものの似姿であり、宇宙の体系を知ることができ、建築術的な雛型によってある点まで宇宙を模倣することができる。こうしてそれぞれの精神は、自分の領域における小さな神のようなものである(同上§83)。

 

以上のことから、精神=小さな神々は、世界の中において独自の在り方をなし、諸モナドを支配的関係に従える場を占めること、すなわち、世界の関係において優位に立つ、自由な存在であることが証明される。

 

3-2.必然的世界における自由意志

 次に論じたいことは、必然的世界においての自由意志の可能性である。一般的に考えると、決定論においては予定説やスピノザ[2]の汎神論のように、人間の自由意志は存在しないとされる。しかし、『モナドジー』を見ると、それらの説とは異なる結論を見出すことができる。

 神による予定調和は、神がモナドに対して唯一入力した(というより、創造と同時に与えられた)、ある種の設計図によってなされる。ライプニッツはそれを「魂の襞」と呼び、最善の結果を成す世界全体の縮図を内包していると主張する(同上§61)。つまりそれは、神の意志は創造においてのみ関わることを意味し、それ以降はモナド自身の力動がなすということ、また、これまで確認してきた必然的真理が、プラトンイデア界のように別様の世界に存在するのではなく、諸モナドが内在的に保有しているということを意味する。モナドは単独の状態からして、すでに宇宙の全貌をその内に潜ませているのであり、明晰な表象により、その一端を我々に開示する。つまり、モナドは一見して機械的に動いているように見えるが、その実においては、常に自発的に最善の結果、すなわち予定調和をなしているということになる。これにより、モナドの一形態たる理性的精神は、必然的真理を内在的に有しており、それ単体において自発的に働きをなすことが証明される。

 

4.可能世界の検討と最善世界の選択

 ここからは、上記の議論を用いて可能世界と最善世界という概念を説明し、決定論的世界と自由意志がどのように整合するのかを考察したい。

 ライプニッツは、スピノザにおける神による世界の必然性、唯一性を否定し、神は可能世界を検討したうえで、最善の世界を選択するという立場を取る。これは神に限らず、人間などの理性的存在も含まれると思われる。主体的、自発的な自己が、神と同様に考慮と選択を行うのである。これは、そういった存在が可能世界の検討に参加しているということであり、そこから各々の理性の限度に応じた結果を選んでいることになる(同上§57)。ここにおいて、あらゆる選択肢を検討することは、世界が偶然であることを意味し、一方で、最善の世界が選ばれるということは、各モナドが自身の予定調和を発揮するということを意味する。つまりこれは、精神を含めた各モナドがいかなる世界を選択しようとも、それは神の最大の一端を表現するのであり、必然的にそれは最善の世界となるほかないということである(同上§87)。これは、誤解を恐れずに言えば、神が定めているのは世界の最善性のみであり、その内容は精神を含めた各モナドが選び取っている、ということができるだろう。

 

5.結論

 本稿ではこれまで、ライプニッツの世界観における自由意志の存在について、前提となる概念を説明する形で議論を進めてきた。議論を概説すると、最初はモナドについて論じ、それが世界を構成する心的な実体であることを説明した。次に、モナドは表象の判明度によって、精神や魂、物質になることを確認した。さらにその次には、精神が必然的真理を知ることによって引き出されること、また、偶然的真理は必然的真理の存在によって導き出されることを説明した。それからは、議論を自由意志の存在へと進め、諸モナドを従える理性的存在は能動的であり関係的自由を有すること、またモナドは単独にして既に必然的真理を知る力動であり、精神はその一端を表出するので、自発的な単独的自由を有することの二つを説明した。そして最後には、可能世界の検討と最善世界の選択について論じた。ここでは、あらゆる可能世界は世界の偶然性によって検討されるが、その中のどれが選ばれるかは精神を含めた各モナドの予定調和によって果たされるのであり、どの世界を選択しようとも世界は最善のものになるほかない、ということを考察した。結論として、決定論の世界において自由意志を持つ存在は、理性的存在であるということ、また、その自由な意志によりなされる世界は最善となることが証明された。

 

〈参考文献〉

フランクリン・パーキンズ『知の教科書 ライプニッツ』梅原宏司・川口典成訳、講談社選書メチエ、2015年。

ライプニッツモナドジー』谷川多佳子・岡部秀男訳、岩波文庫、2019年。

小林道夫編『哲学の歴史 5: デカルト革命』、中央公論新社、2007年。

 

計5305字(表題部除く)

 

[1] 本稿においては、たびたび理性的魂を有する存在を人間だと言及してしまっているが、ライプニッツにおいては本来、人間という種に限らず、高い理性を有している存在は全て人格的かつ能動的な存在だとされる。

[2] スピノザは、世界そのものが直接的に神であるという汎神論の立場や、決定論、自由意志の否定という立場を取る。ライプニッツスピノザは、言葉の上では非常に立場の異なった印象を与えるが、本質的には主張が似ているようにも思える。この点については、また別の機会を設けて考えてみたいと思う。

トルコの地誌を描く ―様々な歴史が溶け込む地域の特徴と課題―

 

1. 序論

 本稿は、トルコの地誌を描くことを目的としたレポートである。そのため本論では、トルコがどのような国なのかを記述していく。まずは風土の基本、気候と地形について説明する。次いでトルコの歴史を説明し、それからは、現代のトルコが抱えている問題点について検討を行う。トルコの歴史の部分を詳述したのは、トルコの地で起きた数々の歴史的事象もまた、土地の特徴だと筆者が捉えたためである。

 

2. トルコの基本情報

 まず、基本的な情報を確認する。トルコ共和国小アジア、もしくはアナトリア(ギリシア語で「日の出ずる場所」の意味)と呼ばれる地域にある国で、面積は約80万㎡(日本の約2倍の広さ)、首都はアンカラにある。国民は約8000万人おり、その内の4分の3がトルコ人、残りがクルド人、その他少数民族で構成されている。クルド人の居住はトルコ南東部に集中している(図-1)。国の定める言語にはトルコ語が、文字にはラテン文字が使われている。

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(図-1)クルド人の居住地域

 

3. トルコの気候、地形

 トルコは古代から沿岸部に都市が作られた。そのため現在でも、人口はやはり沿岸部のほうが多い(図-2)。沿岸部から離れて内陸に入ると、急に標高が高くなり、国土の大半が標高1000m前後の高原になっていることがうかがえる(図-3)。そのため内陸は、全体的に涼しい気候だと言える。対して人口の多い沿岸部は、典型的な地中海性気候となっている。これらの地域では、地中海の象徴であるオリーブをふんだんに料理に使う。一方で内陸は、ステップ気候の乾燥帯も多いが、北部などは雨が多く、農業や酪農が盛んである。そのため、内陸ではオリーブよりもバターや尾脂(羊の尾にたまる脂肪のかたまりのこと)が好んで使われており、農業の形態に応じた食文化が作られていることが分かる。また、北東部ではリンゴが取れるが、南西部ではオレンジが取れる。日本の南北の関係と同じような、多様な気候があると言える(図-4)。

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(図-2)トルコの人口密度分布図

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(図-3)トルコの標高図

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(図-4)トルコ周辺の気候図

4. トルコの歴史

 トルコの特徴はなんといっても、その歴史の長さ、住む人々の塗り替わりの多さにあると言える。その歴史の始まりは、人類史において初めて鉄を使用したとされる民族、ヒッタイト人にまで遡る。首都アンカラの北東にあるボアズキョイ村からは、ヒッタイト帝国の首都であったハットゥシャ遺跡が出土した。ここで発見された粘土板には、史上最古の和平条約が刻まれているという。

 オリエント文明に続いて、この地にはギリシア人たちが入植してきた。アナトリア西部からは、ホメロス叙事詩イリアス』の舞台であるトロイア(イリオス)が発掘されている。ギリシア本土から渡ってきた人々は、ギリシア人の中でもイオニア人と呼ばれるグループであり、本土とはまた異なる文化を形成した。最古の歴史家ヘロドトスハルカリナッソスから、最古の哲学者タレスはミレトスから、いずれもこのイオニア植民市から現れた。このため、アナトリアは文明を育む母の役割を担ったと言えるだろう。

 そうした多くの国々によって支配をうけたアナトリアは、イラン系ササン朝ペルシアと、アレクサンドロス3世の大帝国(アルゲアス朝マケドニア)を経て、ヘレニズムの時代へと至る。この地域がローマ人による支配を受け、その後ローマが分裂しビザンツ帝国となって以降、ラテン語よりもコイネー(中世ギリシア語のこと。「共通」の意)が好んで話されたことからも、この地に残ったギリシアの影響力の大きさはうかがい知ることができる。

 アナトリアの最終的な支配者であるトルコ人の起源は、中国の歴史に現れる「匈奴」と目されている。彼らは、はるばる東アジアの北部から、ユーラシアを横断してこの地に定住した、チュルク語族という言語のグループに属している。チュルク語族には他に、中央アジアの国々の言葉やモンゴル語が属する。特にコーカサス地域に住むアゼルバイジャンなどのチュルク系の民族との類似点は非常に多く、ほぼそのままに言葉が通じるという。ちなみに系統不明とされている日本語や韓国語も、地理、語彙的な関係や膠着語という共通点からチュルク語族と見なされることがある。

 彼ら遊牧民族たちは、当時の東アジアから中央アジアにかけての広い地域にわたって住んでおり、非常に高い戦闘能力を有していたとされる。その実力は、戦いに負けて逃げた先の地域を支配してしまうほどのものであった(烏孫キルギスの例)。彼らは唐代までは主に東アジアに住んでおり、中国の歴史にたびたび干渉したが、唐の崩壊前後に中央アジアに移動し、イスラム教の教えを取り込みながらその地を支配、1299年にオスマン帝国を建国した。オスマン帝国の国力はすさまじく、1453年にビザンツ帝国を征服した。オスマン帝国は、ブルサに置いていた首都を、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルへと遷都し、その名をイスタンブールと改めた。

 オスマン帝国はその規模からイスラム教の盟主とされ、数百年もの間、絶大な支配を誇ったが、欧米列強が近代化していく流れにはついていくことができず、第一次世界大戦の後には敗者として、列強による割譲を許す条約を結ばされることとなった。帝国の近代化を急いでいたトルコ軍人たちは、この不条理な条約を境に立ち上がり、トルコ革命を起こして帝位を廃位、トルコ共和国を建国して、列強による割譲の危機を防いだ。革命の中で軍部から頭角を表したムスタファ・ケマル・パシャ[1]は、革命の後、初代大統領に就任し、トルコの近代化政策を推し進めた。そのため現在のトルコでは、イスラム教において正当とされているいくつかの風習(太陰暦アラビア文字など)を国家的には採用していない。イスラム教の盟主であり、複数の民族を支配していたオスマン帝国とは対称的に、現在のトルコは世俗化と、トルコ人としての自意識の特徴を持っていると言えるだろう。ただし、近年はトルコ国内でもイスラム原理主義の人々が増えていたり、熱心に信仰する人が再び増加していたりと、「揺り戻し」の面もあると見られている。

 以上のように、トルコには非常に複層的な文化、文明が残っていると言えるが、現在住んでいるトルコ人たち当人からすれば、古代の遺産は「以前の住民の忘れ物」ぐらいに思われているようであり、文化財の保存の環境は、残念ながらあまり進んでいるとは言えない。歴史学、地誌学の観点から言えば、これらの文化の保存への働きかけが求められていると言える。

 

5. トルコという地域が抱える問題 —「クルド人問題」と「ゲジェコンドゥ」について

 先ほどからアナトリアという呼称を用いているように、この地域は別にトルコ人だけのものではない(長い歴史から見れば、彼らもまた「よそ者」である)。この地には、トルコ人とは来歴の異なる、イラン系クルド人が数多く住んでいる。彼らは特にトルコの南東部に多く、これまで再三にわたって政府に独立を求めてきた。その概略と、現在のトルコに見られる格差の問題について説明する。

 トルコ国内に住むクルド人勢力は、1970年代に「クルディスタン労働者党(PKK)」を作り、トルコからの独立を求めて活動を始めた。それに対しトルコ政府は、彼らをテロ組織だと断定し、彼らの影響が及ぶ地域の住民たち(主に一般のクルド人市民)を武装させるという手段に出た。1980年代に入って、PKKとトルコ軍の間の戦闘が激化すると、一般市民はそこから避難せざるを得なくなり、その大半が都市に流入していった。しかしこの住民の移動が、さらなる問題の引き金となる。

 そもそも都市部では、1960年代から、農村から出稼ぎに来た人々によって作られたゲジェコンドゥ(トルコ語で「夜に建てたもの」を意味する。違法建築のことを指す)の急増が深刻化しており、1980年代に入って、政府によるその違法な土地利用を容認する法令が出されたという経緯がある。ゲジェコンドゥの居住者は、この法令を境に土地の商業的利用、家屋の賃貸を始めていった。この状況下において流入したクルド人市民たちは、旧居住者が賃貸している劣悪な環境のゲジェコンドゥに住むほかなく、より貧困に苦しむことになった。さらに彼らは、トルコ人からの差別による迫害も受けるようになり、その窮状は筆舌に尽くしがたいものとなった。以上が、一連のクルド人問題についての説明である。

また、都市部に現れたゲジェコンドゥ自体も問題を多く有している。例えば、違法建築であるそれらは丈夫な作りをしておらず、災害が起きたときに甚大な被害を発生させるという点が挙げられる。そして懸念すべきことに、トルコのあるアナトリア半島は、プレートテクトニクス[2]において3つのプレートの境界となっており、日本と同様、地震が起きやすい地域となっている。現に、1999年と2020年に起きたイズミット地震では、ゲジェコンドゥにおいて甚大な被害が起きた。ゲジェコンドゥの住民たちは、あくまで都市の機能から疎外されている側であり、クルド人同様、援助が必要な人たちであることに変わりはない。

               

6. 問題の解決のために

 では、それらの問題の解決のために政府が実行していることは何なのか。これについて論じてみたいと思う。まず、クルド人問題についてだが、これにはっきりとした支援策を行ったのは、ケマル・アタテュルクの後継である改革・世俗派の「共和人民党」ではなく、保守・イスラム派である「公正発展党」が政権を取って以降のことである。彼らは帰村を求めるクルド人のために、PKKとの戦闘によって破壊された地域のインフラの再興に予算を割り当て、段階的な帰村を促している。

 これに対して世俗派は、クルド人問題について、軍を送って争いを起こしたものの、支援をすることは全くとしてなかった。その理由は先ほども説明したように、世俗派はトルコ人としての民族意識が強い、という点にあると見られる。この意識がトルコ人によるクルド人への差別につながり、支持層を通して世俗派の政策に影響を与えたのだと推測される。

 筆者としては、政教分離が損なわれるということについて、それにより生まれる損失が非常に大きくなることが予想されるため、簡単にイスラム派を支持することはできないが、一方で、宗教の代わりの紐帯となる民族意識が差別感情や優越観を生み出す原因となることも、見過ごすことはできない。ゆえに、現在は政権から降りている世俗派に必要なことは、クルド人などの少数民族もまた、同じ国民として利益を受けるべき「仲間」であることを国民に理解してもらう、ということだと思われる。対立を超え、和解しあう必要性が求められている。

 一方のゲジェコンドゥ問題については、ゲジェコンドゥが秘める可能性について考える必要があると思われる。現在の政府によるゲジェコンドゥへの対策は、古い違法建築物たちを取り除いて、その土地に新たな集合住宅を建てるプランを提示することが主である(単純に再開発によって立ち退きを命じられる場合も多い)。しかし住民の多くはそれに反対して、自分たちはここに「住む権利」があるのだと主張し、市民間の協力によって状況を改善しようと、連帯を始めている。彼らの自発的な意志を妨げてまで、排他的に都市の健全化を進めようとすることは、正しいとは言えないだろう。地震の例に見ても、その体験を語り継ぐには、住民による積極的な参加が必要である。先ほども紹介した、イズミット地震の際の被害を忘れないために作られた施設や記念碑は、そこに住まう地域の人たちの繋がりが弱く、文化的資源としての効用が低くなってしまったという指摘もあった(木村 2010, pp.51-52)。上からの改革を断行しようとするのではなく、政府と国民の双方が協力して、共同体としての機能を十全に発揮できる環境を整えることが重要である。

 

7. 結論

 本論ではこれまで、トルコの地誌を描こうと試みてきた。まずは、トルコの気候や歴史について述べ、多様な文化と複層的な歴史を持っていることを説明した。それからは、トルコという地域におけるいくつかの問題について説明し、その解決策を提案した。結論としては、トルコは多様な文化によって成り立っている一方で、ナショナリズムによる民族問題や、都市と農村の間にある格差の問題など、課題も多く残っており、それらに対処していく必要があることを確認した。

 本稿では、クルド人を独立させる方向のアプローチを提案することができなかった。理由は主に以下の三つにある。①クルド人はトルコ以外に、イラク・イラン・シリアなどの各地にも散らばっているために、政府が認めることで独立させる形であっても、各国の足並みを揃える必要があり、一国の意見だけでは実現が困難であること。②各国のクルド人たちは必ずしも同じ文化を共有しているわけではないため、それぞれのクルド人解放組織が掲げている目標が異なっており、それらを合わせる必要があるのか、それとも別の国家として独立すべきなのかを検討しなければならないこと。③彼らクルド人解放組織の一部は、シリア内戦やイスラム国との戦闘に参加して活躍しており、ロシアやアメリカから多くの支援を受けているため、冷戦以来の国際的対立の問題に巻き込まれていること。これらの問題については、より綿密かつ広範囲な背景の理解が必要になると思われるので、これについては今後の課題としたい。

 

〈参考文献〉

小川杏子「『ゲジェコンドゥ』における『居住権』運動とその背景 : トルコ共和国アンカラ市を事例に」、『アジア太平洋レビュー』、第15巻、2018年、pp.47-64。

木村周平「サステナブルな文化資源としての記憶?―トルコにおける地震の記憶から」『国立歴史民俗博物館研究報告』、第156巻、2010年、pp.39-56。

鈴木慶孝「現代トルコにおけるクルド市民への社会的排除に関する一考察―国内避難民問題に関する報告書を中心として」『法學政治學論究:法律・政治・社会』 、第99巻、2013年、pp.199-229。

鈴木董編『アジア読本 トルコ』河出書房新社、2000年。

『教育ネットひむか―国際理解:タイ・インド・トルコのくらし』http://material.miyazaki-c.ed.jp/ipa/kokusairikai/tai_indo_toruko/toruko_aramasi/IPA-kok260.htm (2021/01/17)

トルコ共和国大使館 文化広報参事官室』http://www.tourismturkey.jp/ (2021/01/17)

 

計5570字(表題部除く)

 

[1] この人物の名前は、時代によって呼び方が異なる。彼は死後、「トルコの父」を意味する「アタテュルク」という呼び名を与えられ、現在は「ケマル・アタテュルク」と呼ぶのが最も一般的とされている。

[2] 地震・火山活動・造山運動などの地球表面の大きな変動が、各プレートが固有の方向に動くために、プレートの境界で起こるという学説。

『メタ倫理学入門』読書ノート

珍しくある程度ちゃんと読書ノートを書き残していた本を見つけ出したので、参考というか(悪い)例として共有してみようと思います(むしろこれを見た方がどういう読書ノートを付けてるのか教えて欲しいです)。本書は立場が非常に多いので、後ろの方には、この本に出てくる「○○主義」を一覧にまとめておいたメモも付記します。コピって使ってください。

参考文献: 佐藤岳詩『メタ倫理学入門』勁草書房、2017年。(3000円)

 

『メタ倫理学入門』読書ノート

 

〈はじめの問い〉

・私はまだ倫理学を簡単にしか学んでいない身である。まずは急がずに基礎知識を身につけたい。

 

〈読み終えて〉

・道徳があるのかないのか、非常に考えさせられる本だった。読んでみての自分の立場は、当初は「道徳的虚構主義」に近いと思われたが、他の主張に一理あると思われることもあった。また、自分が在籍している古代哲学の分野だと、自然主義が基本となって語られることが多いため、ギャップを感じるなあという感想を抱いた。

・それぞれの著者を調べる中で、新アリストテレス主義(徳倫理学)の研究者たちが皆女性であることに気づき、これを興味深く思った。自分は以前、アリストテレスを読んでみたときに、男尊女卑に辟易して本を閉じてしまう経験をしたので、そうした読みをひっくり返す、彼女たちの試みに関心を抱いた。

・この本は非常によい学びとなった。しかしこの本は入門書であり、先へと続く道しるべである。次は、原著に向かい、他の人と話し合い(あるいは薦め)、なじませていくことで、次に繋げていきたいと思う。

 

p5

ミル的功利主義を除けば、功利主義に道徳的根拠づけは必要か?(効率性だけの話をしているのではないのか?)

→どうやら「功利主義」は、一般的にミル的功利主義を指すらしい。

 

p31

客観的性質の確実性は非常に疑わしい。例示に出ているような五感はなぜ、ある程度の共通理解が可能なのか?

→言語的情報を共有(口コミ、感想)することで同一化が発生している?

ex映画を観ながらおしゃべりが出来るとすれば、おそらく一緒に観ている人たちの感想は、そうでない場合よりも似通うことだろう。

 

p41

例えば、モラリストたちの意図を考えてみよう。モラリストたちの言葉は表出主義的か?それとも認知主義的か?

→認知主義的に思える。

→それはなぜ?

 

p45

例えば、人権を(完全に)支持する人たちからすれば、男尊女卑の習俗は全て排斥されるべきなのか?

 

p48

異文化人が、その風習をどうしたいのか。保存したいのか、変えたいのかを功利的(民主的)に判断するとよい?

 

p49

「弱者のための倫理を保護しなければ、私に降り注ぐ理不尽であっても反対できないのではないか?」という主張もまた、一元的に物事を考えているだけのような気がする。倫理(多少の普遍性)を担ぎ上げるのも、倫理の相対性を謳うのも、どちらもあってよいはずだ。

 

p70

・奇妙さからの論証

①もし客観的価値が存在するとすれば、それらはこの世界の他のものと全く違った、非常に不思議な種類の実体となるだろうが、そんな奇妙でいかがわしいものが実在するとは思えない。

②また、そんな不思議な実体に気がつき得るとすれば、普通の方法ではたどり着き得ない、道徳的直感といった特別な能力によるということになるだろう。しかし、そんな特別な能力が私たちにあるとは思えないので、客観的な道徳的価値は実在しない。

 

p78

性善説性悪説の議論に似ている。性悪説においても、悪が存在するというのではなく、無知である人間が協力したり努力したりすることで善を生み出していけるという主張をする。

 

p82

道徳的虚構主義を取っているからといって、何も道徳的判断を理由に理性的になってはいけないというのはおかしい。道徳的虚構に気づいていながらも、メタ度を落として道徳性を「演じて」もいいのではないか。

→反省的自己と非反省的自己のお話かも?

 

p83

価値判断というのは、道徳的なもの以外にも基づけるのではないか(利己性、効率性)。

→道徳以外の価値基準というのは、外在化された目的であり、自存的なものではないのではないか。

→反対に、道徳は常に内在的な価値基準なのか?(義務的でない道徳が存在するのか?)

 

p83

メタ度を下げた方が(疑うことのない信徒であった方が)道徳とは上手に機能するのではないか。むしろ、道徳的な行動を取れるというレベルの人間は、大半が道徳を心の底から信用しているのではないか。

→こうなると準実在論ではないのか?

 

p103

・還元主義

ある超自然的な概念を、自然的に実在する何か別の言い方に過ぎないとする事で、その実在を確かなものにしようとすること。ゾンビパターン(ゾンビをウイルスの症状という設定にすることで合理的に説明する)。

 

p111

「道徳的性質と自然的な性質は、同じものを指し示すか、違うものを表している」

ヘーゲル的?弁証法を用いて、様々な角度から「善は快である」と言えるものを重ねていく。

 

p112

「定義を作り直していくことが、理論を作っていくことだ」

 

p116

倫理を科学の場に引き出せる点がコーネルリアリズムの強み。

 

p125

「道徳は動機付けの力を持たない」とあるが、道徳とはそもそも動機付けの理由として説明されるものではなかったか?

→「弱い実在論」の項目を参照。

 

p125というか4章全体に対して

・「道徳の重さ」について

「道徳の重さを分かっていない」という実在論系の反論が多く見られるが、「道徳の重さは、そもそも保証されるべきか」ということについて、もう少し考える必要があるのではないだろうか。

 

p141

ムーア的直感主義とは、決してオカルトじみているのではなく、「他の何かに言い換えることが出来ない」からこそ「道徳それ自体が善い」と言う他ない、という立場のことである。

 

p160

道徳的虚構主義と準実在論の違いはどこか。

 

p160

幽霊は実在しているかどうか分からないが、私たちに影響は与えている。影響を与えるなら、実在しているのと同義に近いと言えるのではないか。(ただしこれは科学が強い支配力を持っていない社会においての話である。なぜなら科学とは道徳実在論の例えだからである。)

 

p166

価値から態度が作られるのであり、また欲求が価値になるのではない、というのが実在論側の前提にある。「正義のために」の「正義」とは?

 

p178

「地盤の例え」

実在論→人々は皆陸地の上で暮らしている。

非実在論→人はそれぞれ一人分の木材を与えられ、自分用の舟を浮かべて生活している。

第3の立場→人々は集まって比較的大きな船を作り暮らしている。

 

p180

トーンポリシング反対論は手続き的実在論への反論と一部重なっている?

 

p184

形式と実質の乖離。

 

p208

表現型情緒主義はトーンポリシング反対論と結びつきそう。

 

p210

体罰そのものについて述べていないからと言って、それは意見は一致しうると言えるのか?

 

p224

人に勧める根本的な理由とは?(プラグマティズムの有用性の根源と同質)

 

p246

なぜビーガンは宣伝下手なのか?

→世の中の「普通の」道徳的な人は表出主義が多く、反対にビーガンでは認知主義が多いのではないだろうか。

 

p258

「同情」は果たして道徳的欲求か?道徳的判断ではないのか?

 

p259

外在や内在に関わらず、相手の判断を変えさせるために最も有効な手段について話し合おう。

 

p260

外在主義と内在主義の差は、「世の中の人間は基本的にクズで、たまにいい人がいる」と「世の中の人間は基本的に善人で、たまに悪人がいる」の差で見ると分かりやすいのではないか。

 

p301

・道徳的であることの理由がトリヴィアルであることは、直観主義的であるように思える。そのため理性主義に対する批判に、トートロジーが起きているという点は当たらない(本当に?)。それそのものが善いとされる理由に、軽々しく答えるべきではないのも、また事実であるように思える。

・トマス・ネーゲルの倫理的立場って述べられてなくない?

 

『メタ倫理学入門』 主義まとめ

 

・主観主義

・客観主義

・道徳的相対主義

→事実レベルの相対主義

→規範レベルの相対主義

→メタレベルの相対主義

・普遍主義

 

非実在主義(錯誤理論)ージョン・マッキー

・道徳全廃主義(ニヒリズム)

・道徳的虚構主義

→解釈的虚構主義ーマーク・カルデロン

→改革的虚構主義ーリチャード・ジョイス

・保存主義ーヨナス・オルソン

 

自然主義実在論

・意味論的自然主義(功利主義、徳倫理学)

・還元主義的自然主義

→分析的還元主義ーフランク・ジャクソン

→総合的還元主義ーピーター・レイルトン

・非還元主義的自然主義(コーネルリアリズム)ーリチャード・ボイドetc…

 

自然主義実在論

・神命説

・強固な実在論(直感主義)ージョージ・エドワード・ムーア、ハロルド・アーサー・プリチャード

・理由の実在論ーデレク・パーフィット、トマス・スキャンロン (ヘア、ロールズの流れを汲む)

@理由の内在主義ーバーナード・ウィリアムズ

@理由の外在主義ーD.パーフィット

 

第三の立場

・準実在論(投影主義)ーサイモン・ブラックバーン

・感受性理論ージョン・マグダウェル

・手続き的実在論ークリスティン・コースガード、ジョン・ロールズ

・静寂主義ーリチャード・マーヴィン・ヘア

 

表出主義(非認知主義)

・表現型情緒主義ーアルフレッド・エイヤー

・説得型情緒主義ーチャールズ・スティーブンソン

・指令主義ーR.M.ヘア

・規範表出主義ーアラン・ギバード

 

認知主義

→動機付けの内在主義

→動機付けの外在主義

・ヒューム主義

 

ニヒリズム

・科学主義

・理性主義

→カント主義的理性主義ーC.コースガード

→新アリストテレス主義的理性主義ーフィリッパ・フット

・見方の倫理ーアイリス・マードック

 

その他

ウィラード・オーマン・クワイン                    

ロバート・ノージック

トマス・ネーゲル

 

哲学史

18C〜 自然主義実在論(古典的功利主義)

1910〜30 非自然主義実在論(直感主義)

1930〜40 情緒主義

1950 指令主義、規範表出主義

1970 非実在論、虚構主義、手続き的実在論、感受性理論、準実在論

1980 自然主義実在論(還元的実在論、コーネルリアリズム)

2000 非自然主義実在論(強固な実在論、理由の実在論)