電子の雑煮

レポートが苦手な大学生です。苦手を克服するためにレポートを公開したいと思います。

『ジェンダー・トラブル』2章3節 読書会レジュメ

 

 本文章は、海外PhDのショライさん(@phd_arai)主催の『ジェンダー・トラブル』読書会のために作成したレジュメである。ここでは自分が担当している2章3節「フロイト、およびジェンダーのメランコリー」について取り扱う。この節は、バトラーによるジェンダーのトラブルの実践について語られる。扱う対象は主にフロイトである。以下では、文章を読解するに当たって必要と思われる情報を説明していく。フロイトの理論には用語が多いため、その用語を適宜強調しながら説明を行う。

 

フロイトについて

 ジーグムント・フロイト(1856-1939)とは、「無意識」の概念を発見し精神分析を創始した精神科医、思想家である。彼は、人間は幼少期から性欲(リビドー)に溢れていると唱えた。哲学の界隈においては、現代思想を語るにあたって絶対に外せない一人とされ、ニーチェマルクスフロイトの三大巨人などと呼ばれる。

 彼の理論の中心をなしている概念は、リビドーである。リビドーは、無意識(フロイトの用語でエスという)が抱く生理的、衝動的な欲望のエネルギーのことである。快を求め、不快を避けようとするこのエネルギーは、年齢と共に発達し、自我を形成するより高度なエネルギーへと変わる。これが抑圧である。抑圧の過程の説明に、リビドーがその対象を喪失する旨(悲哀)が登場する。 

 彼は子どもの心理の発達に注目し、観察と分析を行った第一人者でもある。この領域における重要な概念に、エディプスコンプレックスというものがある。これは、子どもが、異性の親を所有しようとする欲望を諦めて、同性の親への憎しみを抑え、友好を図る超自我(自らを律したり禁じる力。道徳や良心とも言い換えられる)が出現する現象のことを指す。この名前は、登場人物皆血縁があるとは知らなかったとは言え、自分の父親を殺し、自らの母親と結婚した王、『オイディプス王』の悲劇に由来する。

 

② 本文におけるフロイトの分析、特に『悲哀とメランコリー』について

 以上の基本的な概念を説明することで、より立ち入った議論の説明を行うことができる。まず、バトラーが本文において分析するフロイトの文献は、『悲哀とメランコリー』という論文である。このタイトルにある悲哀とは、対象の喪失による正常な悲しみのことを指す。この過程を経て、リビドーの対象が切り替わる。具体的に言うと、愛する人やものを失ったとき、人は一時的にその愛の方向を失い、虚ろになるが、次第に新たなリビドーの対象を見つけ、回復していく事例などを指す。

 対して、タイトルの後半、メランコリーとは、古くはうつ病を引き起こす体液、黒体液のことを指すが、フロイトにおいては、過度な悲しみのあまりに、ある人が対象の喪失を理解できず、対象を失ったリビドーが自我に向けられる現象のことを指す。愛する対象の理想像が自我に向けられるため、自己批判的になり、自分を傷つけるようになるという。またこの現象は、自我に関心が集中するため、自己愛的な退行でもある。

 このメランコリーという用語は、本来は、精神病を説明するためにフロイトが取り入れた概念だが、後の著書、『自我とエスにおいて、子どもの発達過程にも適用されるようになる。子どもが、同性の親への同性愛を断念し、それを自己の内に取り込むということと推測される。この過程は、同性愛タブーという用語と同義である。

 タブーにはもう一つの類型がある。それは近親姦タブーであり、これは、子どもの異性の親に対する所有の欲動を抑え込む超自我、つまりエディプスコンプレックスのことを指していると思われる。また、メランコリーによって自己の内部に生まれる批判的な自我、つまり同性愛タブーによる規範意識の発生も、超自我の一種だと推測される。

 

③ 補足、疑問点(主にフロイトに対して)

去勢不安、去勢コンプレックス男児が父親から去勢されることに恐怖し、父親に従うようになる現象。言っていることがよく分からない。なぜ性器を取られると思い込むのか?男の同性愛は、自分が女になるという恐怖を感じるということ?

男根羨望…女児が自身に男根がないことを不安視する現象。イリガライが女性器の分析を展開するのは、こうした、フロイトによる男性器の優越、女性器への無視が根底にあると見られている。こちらもよく分からない。「人間の欲望はリビドー(性的な欲望)に基づいている」という前提を固持しようとしすぎただけなのでは?

フロイトの『悲哀とメランコリー』(1917)の論文は、超自我の概念が初登場した『自我とエス』(1923)よりも前であることに留意してほしい。メランコリーとは元々病気の概念である。それが発達の概念として取り入れられるということは、人間は皆一度、精神病を経て大人になることを意味する。個人的に、なんだかそれはおかしな話であるように思われる。この前提を無視して話を進めてよいのだろうか?

※2021/4/30 加筆…むしろバトラーは、こうしたフロイトが前提とした概念の馬鹿馬鹿しさを暴いたと見ることができる(誰もおかしいと思わなかったのか?)。

 

④ 当該節の要約

 フロイトは、子どもの発達過程において、二つのタブーによって、ジェンダーアイデンティティが獲得されていく様を分析している。その過程は以下のように進む。まず、子どもは両性愛を抱く。子どもはその際、主に同性の親を愛そうとするが、それが不可能なため(理由は不明)、メランコリーを起こし、自らの内に同性の親の振る舞いを同化する。そうして子どもは自らの性別を同定していき、今度は、異性への愛に集中する。しかし、その際に、同性の親が子どもの前に立ちはだかり、この異性愛は頓挫する。結果として、子どもは異性の親への愛を諦め、この二つの愛の諦め(タブー)が生み出した規範、つまり超自我が、その後の子どものジェンダーアイデンティティを定めていくこととなる。

 しかし、この過程を実在するものとして捉えることは、誤った基盤主義(本質主義)を生み出しかねない。これらの成立過程は隠蔽されている。子どもは本来、より様々な対象を愛せるのかもしれないし、自らに性別を付与する必要もないかもしれない。こうした理論による正当化、つまり法は、我々に模範像を押し付け、そこから外れぬように抑圧してくる。

 

〈参考文献〉

ジュディス・バトラージェンダー・トラブル』竹村和子訳、青土社、2018年。

・鈴村金弥『人と思想 フロイト清水書院、1966年。

フロイト「悲哀とメランコリー」『フロイト著作集6 自我論・不安本能論』人文書院、1970年(以下のサイトから、「悲哀とメランコリー」についての要約を載せているものを見ることができる。今回は時間の関係上、筆者もこの要約程度しか遡れていないため、精読とは程遠いものになっているかもしれないが、ご了承いただきたい)

https://s-office-k.com/midfreud/mourning (「喪とメランコリー」、心理オフィスK)