電子の雑煮

レポートが苦手な大学生です。苦手を克服するためにレポートを公開したいと思います。

自分が今までに見た映画を雑に振り返る。

夜寝れないときに、今まで自分が見てきた映画の感想を思い出して簡単なメモを作ってたので供養しときます。映画初心者なのでお手柔らかにお願いします。一応公開年順です。おすすめの映画があればどうぞ教えてください。

☆特に気に入った5本。人情モノ大好きかお前?

・『トゥルーマンショー』(1998)…最高。一番好きな映画かも。心理学的な比喩が混じっている気がする。トゥルーマンは同じ挨拶を繰り返す。挨拶の意味はだんだんとすり替わる。自分の日常が崩壊したとき、彼はいつもの挨拶をして「スタジオ」を去る。何が起きようとも、自らを肯定する強さ。彼は本当の意味で「スター」になる。しかしまた一方で、彼は消費されるものでしかなく、多くの人々にとっては感動的なドラマで終わる。最後にチャンネルを変える人々。消費への批判。

 

・『ターミナル』(2004)…良作。スピルバーグ侮るなかれという感じ。宗教的モチーフがある気がする。空港内は一つの「小さな世界」。彼は右も左も分からずにここに放り出され、戸惑いながらも適合していく。最終的に、彼は大きな世界へと生まれ直す。動機は何でもいい。むしろ小さな、それでいて高邁な願い。ささやかな願いの美しさは素晴らしい。

 

・『落下の王国』(2006)…良作。作者は綺麗な世界遺産をカメラに収めたかっただけのような気もするけれど、それ以上の深みを生み出している作品。映像が我々に与えてくれる勇気。降りかかる死を乗り越えて、何度でも生を肯定せよ。スタントマンを讃えよ。

 

・『最強のふたり』(2011)…最高。文化と人種の差を超える。健常者の生活とケアの差異を描く。人間らしさを損なわぬ介護。

 

・『スペシャルズ』(2019)…最高。『最強のふたり』の監督の最新作だけど、日本だとあまりやってなかったかも。なので一番布教したい作品でもある。どうやって障害者の役作りをしたのかが気になる。まードチャクソに泣いた。人間ってすごい。ヒューマニズムの極致。

 

☆名作とされている作品たち。一部理解できなかったので詳しい方教えてください。

・『2001年宇宙の旅』(1968)…意味不明。ここから全てのSFが始まったんだなという点ではすごい。

 

・『ゴッドファーザー』(1972)…何が面白いのかわからんかった。しかも長い。家父長制キッツという感想しか抱けなかった。人の縁を重要視するイタリアの家族観は、日本のそれとそっくりで、歴史的事情としては面白いと思った(すぐにでも消えてほしい文化ではあるが)。ジョジョ5部のおかげ。

 

・『スタンドバイミー』(1986)…あんまり面白くなかった。懐古趣味。MOTHERとポケモンのおかげ。原作スティーブン・キングってマジ?

 

・『ダンスウィズウルブズ』(1990)…まあまあ。異なる文化を理解しようとする監督の姿勢はよいと思う。ただ、ヒロインが結局白人だったり、別のインディアンコミュニティを悪として描いてる点はうーんという感じ。あと結末が悲惨な気しかしなくて(歴史的には確かに悲惨かもしれないけど)、視聴後はちょっとモヤる。

 

・『ショーシャンクの空に』(1994)…最高。どんな状況下でも希望を持っていたいという気持ちになる作品。もし自分が彼だったとして、下水道500メートルを下りきれるだろうかという想像が脳裏にチラつく(無理だ~)。これと『スタンドバイミー』は同じ短編に収録されているらしい(本作のテーマは「春」で、スタンドバイミーは「秋」)。

 

・『戦場のピアニスト』(2002)…良作。正直自分からするとゲルマン人ユダヤ人の区別が分からない(特にひげがない場合)のでそこにビビったという与太話。しんどい作品ですが、一見の価値あります。

 

・『ダークナイト』(2008)…良作。モチーフに相当凝ってる気がする。考察が捗る映画。ヒロインが主人公の足枷にしかなってないとことかはちょっと不満。

 

・『インビクタス/負けざる者たち』(2009)…良作。マンデラ大統領の白人との和解を描いた作品。面白くないかもしれないけど、むしろこういうのは美化しすぎてもいけない気がする。融和の物語は基本、強者からしか語りえないので。むしろ今のご時世だと、不満を抱く人たちのほうが多いかもしれない。

 

・『インセプション』(2010)…まあまあ。主人公の男が未練がましくて見てられない。映像や構成は凝ってる。

 

・『レ・ミゼラブル』(2012)…微妙。ミュージカルの歌はよかったけど、それ以外何を楽しめばいいのかよく分からなかった。ジャンは結局、養子の娘のために生きたいの?皆のために献身して生きたいの?献身の実際描写が少ないから、ジャンがいい人だというのが分かりづらい。要はキャラの行動の心理が全然読めない。もっと端的に描いて欲しいと思ってしまう。

 

・『万引き家族』(2018)…良作。くだらなくもあるし、切実でもある。人間の愚かさとたくましさを感じる作品。避妊をしっかりして、安易に子どもを産まないようにしよう!これぐらいしか言えない。

 

・『ジョーカー』(2019)…言わずと知れた名作。面白かったけど考察サイト色々回って意見を集めてしまったので、自分らしい意見は書けないと思われ。でもそれぐらい考察のしがいがある映画。

 

・『パラサイト』(2019)…良作。こちらも貧乏がテーマ。でも展開がダイナミックで、話がポンポン進む。見ていて飽きない。途中もオチも相当しんどいけど、この堪える感覚こそ監督が伝えたいことだと思う。もっと「わきまえず」に生きようと思った。あと監督がおすすめしてた白黒バージョンも見たい。

 

☆エンタメ枠。軽く見れるってことも大事っすよね。

 

・『マトリックス』(1999)…王道すぎてあんまり。なんかもっと哲学的な作品かと思ってた。チャチなカンフーすき。敵のおっさん(エージェント・スミス)の演技がいい味してる。

 

・『シックスセンス』(1999)…良作。ホラーとお涙頂戴のバランスがいい。「オチを調べないで!」と頼むだけのことはある。

 

・『イップマン 序章』(2008)…カンフー映画独特の動きすき。淫夢御用達の知将MURが出てくる作品はこれね。大日本帝国が悪役なのは事実ダルォォン!?人気で三作作られたけど、どれも見どころさんたっぷりでいいゾ~これ。

 

・『ベストキッド』(2010)…カンフー映画初心者でも見やすい王道作品。リブートだけどいい感じにブラッシュアップされてて、バランスのいい作品になってると思いやす。

 

・『シン・ゴジラ』(2016)…良作。邦画にも歴史ありなのね~と感心した作品。蒲田くんの気持ち悪さすき。石原さとみのガバガバ演技も一周回ってすき。現実の官僚の皆さんもこれくらい有能だったらいいわねという感じ。

 

・『search/サーチ』(2018)…まあまあ。映像の工夫がよかった。パパの演技と行動がちょっとつんのめりすぎて息苦しさはあったかも。

これからのシモーヌ・ヴェイユとフェミニズムのために

1. 序論

 筆者は、前回シモーヌ・ヴェイユを題材としてレポートを書いた(以下参照)。

 そこでは、神へと至る信仰の愛を「女性的なもの」として解釈した。しかし、信仰はあまりに深淵である。この現代において、全ての人が至らなければならない道ではない。そもそも、レポートで扱ったような女性の表象では、「真理としての女」から逃れられていないと自分でも思う。ゆえに筆者は、別の形でヴェイユを理解し、それを人に伝える必要がある。

 また、ヴェイユフェミニズムの間に何の関係があるのかとも言われることもあるだろう。彼女は女性であったが、フェミニズムの提唱者であるボーヴォワールと問題意識を共有することはできなかった。ゆえに、本論では、ヴェイユの思想がフェミニズムに呼応しうるのかどうかを検討する。流れとしてはまず、ヴェイユボーヴォワールが交わした会話について、バトラーの問題意識と絡めながら、その意図を探る。その次には、現代の人々にも有効と言えるヴェイユの思想の方向性について考える。最終的に、ヴェイユの思想はフェミニズムと関わりうることを主張する。

 

2-1. 口論—ヴェイユボーヴォワール

 前述したように、ヴェイユは生前、ボーヴォワールソルボンヌ大学で出会ったことがある。このことはボーヴォワールの自伝『娘時代』に記されている。二人はその際、飢餓の問題について話し合った。ボーヴォワールが精神の解放、権利の獲得について説いたのに対し、ヴェイユはそれを一瞥して、「あなたは一度も飢えたことがないってことがよく分かる」と返したという。このことは、何を意味すると言えるだろうか。筆者としては、この発言は、単に不幸の相対性を言っているのではないと考える。そもそも、人は飢えなくなったところで、そこには無限の不満が続く。不幸や不満は人によってさまざまなのだから、本当の問題は、それらを自身の抱える一様の問題意識に区切ってしまうところにある。自分の権利を認められたいがために、飢えた隣人の苦しみを忘れる。その感性こそ、ヴェイユが嫌ったものだと読み取られよう。

 

2-2. 捨象―バトラーとヴェイユ

 上記と似た指摘は、フェミニズムの新たな次元を切り開いた哲学者、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』にも見られる。バトラーは、本書の第1章第1節において、「代表/表象representation」の暴力性について論じている。「代表/表象」という語は、女性という枠組みの代表者を選び出し、その存在を可視化し、正当化するプロセスを担うものであるが、一方で、言語を規範化する力によって、女性という主体の範囲を規定し、統一的な女性像を念頭に置かせるものにもなりうる。これはつまり、その女性という枠組みから外れている人たちを排除することを意味する。バトラーは、そうした姿勢はフェミニズム帝国主義(男性中心主義)と同じものにしかねないと指摘し、女性というアイデンティティ(同一性)を先に規定することは、フェミニズムにふさわしくないと述べる。本人の言葉では以下のように述べられる。

 

フェミニズムの主体という基盤があると断言してしまうことで、権力の磁場がうまく目隠しされてしまい、そしてその目隠しされた権力の磁場のなかでしか主体形成がおこなわれないなら、フェミニズムの主体というアイデンティティなど、けっしてフェミニズムの政治の基盤としてはならない。おそらく逆説的なことだが、「女」という主体がどこにも前提とされない場合にのみ、「表象/代表」はフェミニズムにとって有意義なものとなるだろう。(『ジェンダー・トラブル』p.26)

 

 そのため、フェミニズムには、これまで封じられてきた声を上げるのと同時に、苦しみの内容は人それぞれ異なるという事実を理解することが求められる。そのためには、お互いの声を聞くこと、傾聴する精神を養うことが必要になる。筆者はここで、ヴェイユの重要な用語の一つである「注意力」という語を説明したい。

 注意力とは、対象をあるがままに受け止めようとする努力のことである(冨原 1992, p.83)。物事に対する予見を持たぬようにすることは、日々の暮らしの中ではほぼありえず、これは訓練を必要とする難しいもの、稀なものであると言わざるを得ない。しかしこの、結果を求めることのない注意を持つことができるのであれば、それは現象の奥にある、幾重にも折り重なった「読み」[1]を受け取る力を我々に与えてくれる。この注意力を、「真空」に向けるならば、それは全き神への愛となり、それを他者に向けるならば、それは正しい意味での隣人愛となる。前者を誰もが求めるわけではなくとも、この注意力という言葉の意義は、私たちに大事なものを教えてくれると言えよう。ヴェイユ自身はこう語る。

 

全き隣人愛(他者への注意力)とは、あなたを苦しめているものはなにか、と問うことに尽きる。不幸なひとが集合体を構成する一単位としてではなく、《不幸なひと》のレッテルを貼られた社会的範嘩に属する一員としてでもなく、ある日、不幸の打撃をうけて模倣をゆるさぬ不幸の格印を押されてはいるが、われわれとまったく変わらない人間として実存することを知ることだ。(「学業の善用をめぐる省察」『神を待ち望む』p.103)(括弧内は筆者)

 

 3.接続―これからのヴェイユフェミニズム

 この現代において、誰しもに形而上学的次元、宗教的な次元が必要だとは筆者も考えない。しかし、「巨獣」[2]に惑わされるほかない人々は大勢いる。それは不幸である。その不幸と向き合うために、ヴェイユの思想はきっと役に立つ(そもそも注意力は、有用と無用の観念によって振り分けられる人間の感性に抗う力を育てる)。そのために筆者は、ヴェイユの問題意識と、現代のフェミニズムの問題意識を繋げて捉えていきたい。以下にはその指針を示す。

 まず必要なのは、巨獣(集団の「正しさ」)と神(真に正しい認識)を見分けられるようにすること、労働者(祈りを持たない人たち)自身の文化を作ることである。長い歴史を持つ文化や教養を、労働者自身が引き継ぎ、組み換え、自らの手になじませる工夫をもたらす。これは生前のヴェイユがなそうとしていたことである[3]

 前回のレポートにおいて筆者は、ヴェイユの民間伝承の解釈を追うレポートを作成した。ヴェイユが民間伝承に注目した理由は、歴史による選定を耐え抜いた物語の中には、神と人間の関係などの、普遍的な真理が見出されると信じていたためである。彼女にとって文化とは、そういった過去との接続という「根」[4]を介して、人の心の糧となるものであった。文化や歴史の継承が欠かせないのは、彼女のそうした意識に由来している。この「根」こそが、巨獣の暴走に耐え得る内省を、激情に依らない正しい認識を育てる。

 次に必要なことは、人々の注意力を培うこと、配慮の必要性を社会的に承認することである。一口に配慮と言っても、そこにはさまざまなものが当てはまるが、筆者としては目下のところ、これまで多くが女性によって担われてきた、家事、育児、教育、介護などのケアの労働を想定しており、それらの立場を再考する必要があると考える。ただし、注意力の養成についてはむしろ、安易に行動をせずに「待つ」ことを我々に求める。「注意attention」という語は、「待機、待望」を意味するラテン語「attendare」に由来しており、前述したように、苦しみを言葉にする力を持たない人たちがそれを言葉にできるまで、じっと待ち続ける力を我々に与える。その待つ時間を、個人の努力に全て求めるのではなく、社会的に認めることが必要だと筆者は考える。現在、ケアの労働は、社会のどこにおいても非常にひっ迫しており、ケアを受ける側の声も、ケアの実践者側の声も、十分に聞くことができていないのが実情である[5]。公的なサービスによって運営されているケアの労働は多いが、精神的余裕のない彼らだけに負担を押し付けることは明らかにおかしい。ゆえに、今の社会に求められることは、ケアの労働の必要性を知り、彼らの社会的地位を上昇させること、人員不足などの諸問題を解決することにあると言える。

 

4.結論

 本稿ではこれまで、前期に書いたヴェイユのレポートを見直しながら、それをより現代的なフェミニズムの問題意識に合わせて、ヴェイユの思想がフェミニズムに呼応する可能性を探ってきた。結論として、ヴェイユの思想は、苦しむ隣人の声を引き出し、それを受け入れる力を養う、注意力を中心に据えたフェミニズムの可能性を持っていることが明らかとなった。

 本論においては、やや強引にケアの倫理についての話題を加えながら議論を進めたが、これに対しては、まだ筆者自身の理解が足りていない節がある。そのため、これについても今一度勉強し直しながら、さまざまなフェミニズムの思潮への理解を深めていきたいと思う。

 

〈参考文献〉

シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』冨原眞弓訳、岩波文庫、2017年。

—『根をもつこと』山崎庸一郎訳、春秋社、2009年。

—『神を待ち望む』渡辺秀訳、春秋社、2009年。

栗田隆子シモーヌ・ヴェイユにおける『社会的なるもの』と『隣人愛』をモチーフに女性の『声』について考える」、『臨床哲学』、19巻、2018年、pp.128-145。

・冨原眞弓『ヴェーユ』、清水書院、1992年。

ジュディス・バトラージェンダー・トラブル』竹村和子訳、青土社、2018年。

ファビエンヌ・ブルジューヌ『ケアの倫理—ネオリベラリズムへの反論』原山哲・山下りえ子訳、白水社、2014年。

 

計4060字(表題部除く)

 

[1] 「読み」については、前回のレポートの注、もしくは『重力と恩寵』29章「読み」を参照。

[2]「巨獣」とは、自分で自分をコントロールすることのできない、集団の感情を比喩したものを指す。筆者としては、バトラーが批判した、女性というアイデンティティが先行するフェミニズムもまた、巨獣に飲み込まれうると推測する。言葉の説明自体については、前回のレポートも参照。

[3] 彼女は女工として働いていたころに、同僚に文字の読み書きを教えるために、ギリシャ悲劇の『アンティゴネー』と『エレクトラ』を翻案し、それをテキストとした。これは、日々搾取を受け、苦しい立場にある労働者であれば、たとえ文字を知らずとも、悲劇により共感することができると彼女が考えていたためである(冨原 1992, pp.124-127)。

[4] 「根」はヴェイユが最晩年の1943年に書いた、フランス憲法草案のための覚え書き、『根をもつこと』における重要な用語である。本書においてヴェイユは、根を失い、人間としてのあらゆる存在意義が奪われることの悲惨さと、根による紐帯を介して人々を繋げる意義、つまり国民が依拠すべき国家の「根」である憲法や歴史に必要な姿勢を述べる。

[5] 具体的には、介護や保育における事故(個人の場合、介護殺人など)や、教員の過労死、介護職員の低賃金、人員不足の問題などが挙げられるだろう。

萌え株に興味を持って各企業の関係を調べていた時に作ったメモ。

 萌え株とはその名の通り、オタクコンテンツを作ってくれている企業を応援するために株を買うことです(詳しくはWikipediaを見てください)。それをやりたいな~と思ったときに各企業の関係を調べていたらなかなか興味深いものがいくつかあったので、そのメモを供養しようと思います(意外な会社が子会社を所有していたりします)。アニメの製作に当たっても、配給や提供を行ってる会社の方が金が大きく動くので、ある意味アニメーションスタジオよりも重要になる説あると思うんですよね。あと音楽も大事。

水色はアニメーションスタジオオレンジは音楽製作の会社を意味します。どこもバチバチっすね。お疲れ様です。映画、ゲーム、マンガ、出版社はまた今度まとめます。

バンダイ。自分の命を握られてる企業の一つ。殺されそうで怖い。
バンダイナムコグループ(ウルトラマンスーパー戦隊仮面ライダーガンダムアイドルマスターラブライブ※、アイカツなどを制作、提供)

・創通
サンライズ
ランティス

ラブライブ…角川とバンダイナムコ(サンライズ)の協力で作られた作品。ただしゲームはブシロードによって運営されている。

 

タカラトミー。我が道をゆく。(かつて夢中になったおもちゃたち。ウィクロス、プリパラなど)

 

◎がめつさが目立つブシロード。正直言って品がない。
ブシロードグループ(トレーディングカードゲーム、ブシモ、新日本プロレス)

キネマシトラス(角川と半々)

 

テレビ朝日系。東映テレビ朝日は互いの株をかなり持ち合っている(もうお前ら結婚しろ)
・(親会社)朝日新聞東映、旺文社

テレビ朝日

シンエイ動画(日本昔ばなしクレヨンしんちゃんドラえもんなど)

 

◎マジで角川デカすぎ問題。ここにも命握られてる。
角川グループ

ドワンゴ(元はエイベックスが主要株主だった)
エンターブレイン
メディアファクトリー
アスキーメディアワークス
フロムソフトウェア
スパイクチュンソフト
汐文社
電撃文庫富士見書房ブックウォーカー

 

◎その他大企業系
ソニーグループ(デカすぎて書ききれない)

アニプレックス(鬼滅でウハウハ)(ユーフォテーブルと懇意)

A-1 pictures

 

・エイベックスグループ
→エイベックスピクチャー(ゾンビランドサガなど)

 

フジサンケイグループ

産経新聞
・フジテレビ(ノイタミナを企画)

ポニーキャニオン

 

マーベラス(結局規模がよくわからない。ソニー、フジ、角川など、大手の委託?が多い。元はセガから。プリキュア(東映)など、近年勢力を伸ばしている配給会社のイメージ)

 

プロダクションIG周辺の関係。マッグガーデンも辿ればその金の元は読売なのねん。
・(親会社)日本テレビ電通

タツノコプロ(日テレの子会社)
プロダクションIG
ジーベック(XEBEC)(サンライズに譲渡)(ゾイドファフナー、ヤマト2199など)
ウィットスタジオ(進撃の巨人鬼灯の冷徹魔法使いの嫁など)
マッグガーデン(出版社、ブレイドコミックス)(ブレイクブレイド魔法使いの嫁など)

 

◎ウルトラスーパーピクチャーという会社の関係が面白かったので。
(親会社)
グッドスマイルカンパニー
マックスファクトリー
ブシロード
ニトロプラス
ピクシブ

・ウルトラスーパーピクチャー(持株会社)

サンジゲン
・trigger(キルラキルリトルウィッチアカデミア、プロメアなど)
ライデンフィルム
・エンギ(角川と半々)

 

◎音楽業界の古参新参関係は根深い。
・ケンウッド・ビクターエンターテインメント(音楽業界のドン)
→フライングドッグ(オタク御用達)
日本コロムビア(こちらもドン)
・ブラザー(プリンター会社)
→テイチク(JOYSOUNDを生産、管理)

 

◎映画業界(調べるのめんどくなった)
イオンシネマ(元ワーナー・マイカル・シネマズ(マイカルはイオングループに吸収されたデパート・スーパーの会社。サティ。)(ワーナーはrwbyを見れなくした奴ら。怨みはらさでおくべきか))
東宝(TOHOシネマズ)(鬼滅でウハウハ)
・松竹
・ユナイテッドシネマ

 

これ以上の細かい事情はまた時間ができたら調べることにします…。

『ゴルギアス』における善と快の関係について

1.序論

 本稿は、『ゴルギアス』を主なテキストとしながら、プラトンへの理解を深めることを最終的な目標として作成されたレポートである。本稿の目的は、『ゴルギアス』における善と快の関係性を明らかにし、どのような人間が最もよい存在なのかを考察することである。したがって本論においては、作品内におけるソクラテスの主張について順を追って説明し、それらを対比することで善と快の関係性を明らかにしてから、その対比を元に、最もよい人間像の具体的な内容を説明していく流れを取る。

 

2.本論

 まずは、ポロスとの対話の中におけるソクラテスの主張を確認する。ここにおけるソクラテスの主張は、不正を行なうこと、すなわち善にまつわる事柄は、快楽などの他のあらゆる価値に対して優越するということであり、よくあるかどうかを吟味することだけが重要であるとされる[1]

 また、同じくポロスとの対話において、ソクラテスは不正を行なう者の悪さの度合いについて述べている。その話によると、最大の悪とは不正かつ苦痛であることではなく、不正な仕方で快楽を得ることである(同上479D~E)。むしろ、不正をしていた人物の罪が明らかになることによって、裁判で裁かれ苦痛を味わうことは、むしろその最大の悪からは一段階解放されており、より悪くないという。

 そして、カリクレスとの対話に移ると、ソクラテスの主張はさらに判明になっていく。ポロスとの対話においては、善はあらゆる価値に対して優越するということであったが、カリクレスとの対話においては、善が他の価値をどのように定めるか、という話題が中心となる。カリクレスは、快楽が何にもまして優先されるということを終始主張するので、ソクラテスは、快楽の中にもよいものと悪いものがあることや、善と快の両方の益を持つための方法を説明するなどして、カリクレスの主張に沿わせた反論をする[2]。ここから分かることは、善のためになる快楽も存在するということである。ただ善ければそれで全てよしというわけではなく、善と快の両方を備えた状態こそが最もよい状態なのであり、ポロスとの対話で示していたような「苦痛を被る善人」はその一つ下になるというわけである。

 以上の点を整理して考えると、最もよい存在としては、善と快の両方を備えたもの、すなわち「快い善人」が当てはまるのであり、二番目には善くあるが苦痛を被っているもの、「苦痛を被る善人」が、三番目には不正が暴かれたがゆえに苦痛を被っているもの、「苦痛を被る悪人」が、もっとも下の四番目には、不正を行なうことで快楽を得ているもの、「快い悪人」が当てはまることになる[3]

 作品内におけるソクラテスの発言は、主に快楽を重視する者たちに対する反論が多かったので、その意見の多くは、善が快楽に反する場合、つまり上から二番目のよさに類するものが多いと思われる。ではこの、最もよいとされる存在、善と快の両方を備えた存在には、具体的にどのようなものが当てはまるのだろうか。それを述べるためには、ソクラテスがカリクレスと支配者について対話している箇所が参考になると思われる。こちらは引用を引く。

それでは、不正を受けることは全くないか、あるいは受けたとしても、それを最小限に食い止めるための備えとなる技術とは、いったい、どういうものなのだろうか。……自分自身が一国の支配者となるか、あるいは、独裁者にさえなるか、もしくは、現に存在している政体に味方する者となるか、そのどれかになるのでなければならないと思われるのだ(同上510A)。

 このソクラテスの発言は、先ほども示した、善と快の両方の益を受けるための方法を議論している際に出されたもので、つまりはこの、「自分自身が一国の支配者となる」ことこそが、両方を得るために必要だということを示唆している。一つ気を付けなくてはならないのは、支配者という存在は、苦痛からは最も遠い位置にあるかもしれないが、代わりに不正とは最も近い位置にあるということである。ポロスとの対話においても、快い悪人の例とされたのは、放蕩の限りを尽くす支配者の存在であった(同上470D~471D)。これは先ほどの対比で示した順位において最下位のものである。しかし、見方を変えれば、不正を起こさぬように、最善を目指すように統治する支配者がいるとすれば、それは善と快の両方を持つ存在になるということであり、これは先ほどの対比において一位のものである。

 また、この後の対話の展開においてソクラテスは、人々は不正を受けぬように支配者に似た性格になるということ、そして、真の政治術は人々を最善の方向へ導くということを主張する(同上510A~E, 513C~E)。ここから言えることは、一国の支配者が快い善人であった場合、その善を目指す姿勢は国民全体に広がり、皆がそのよさを分け知るようになるということである。この支配者の姿勢は、後に『国家』の中で語られる、「哲人王」思想の前段階と見ることが出来る[4]。以上が、快い善人の具体的な内容を示す説明である。

 

3.結論

 本論ではこれまで、『ゴルギアス』における快と善の関係性と、そこから明らかになる最もよい人間像の内容についての議論をしてきた。概説すると、最初はポロスとの対話におけるソクラテスの主張を確認し、善は快より優先されることと、快い悪人よりも苦痛を被る悪人の方がよいことの二点を説明した。その次は、カリクレスとの対話部分を確認し、善がそれのみでよいのではなく、同時に快に与ることも考慮されることを説明した。そして、上記の説明により、最高から最低まで全部で4段階の人間像の対比を示した。それからは、議論を快い善人の具体的な内容へと進め、不正を受けないためには一国の支配者になる必要があることと、人々に支配者の性質が伝播していくことを確認し、そういった支配者こそが快い善人であることを説明した。また、それは後の哲人王思想とも重なるものであり、その萌芽と言えるものだということを説明した。

 今回の議論により明らかとなった4つの人間像は、確かに納得いくものであったが、筆者の直観としてはむしろ、苦痛を被る善人の方がよい存在のように思われる[5]。また、『国家』の中でも、哲人王は政治に携わりたくない哲人が、法律によって無理に就くものとして登場する。哲人王ですら、先の順位において二位にしかならないかもしれないのだ。そう考えると、快い善人とは一体何なのかという問題になってくる。この問題については、また別の機会を設けて考えてみたいと思う。

 

参考文献

プラトンゴルギアス』 加来彰俊訳、岩波文庫、1967年。

—— 『国家』(上巻) 藤沢令夫訳、岩波文庫、1979年。

 

計3040文字(表題部除く)

 

[1]ゴルギアス』469C。「もし、不正を行なうか、それとも不正を受けるか、そのどちらかがやむをえないとすれば、不正を行うよりも、むしろ不正を受けることを選びたいね」

[2] 同上499C~D, 509D~E。「人は何を身に備えたなら、……不正を行なわないことから生ずる益と、不正を受けないことから生ずる益と、その両方ともを持つことになるのだろうか」

[3]  図-1 人間像の対比図

1.快い善人    

2.苦痛を被る善人 

3.苦痛を被る悪人 

4.快い悪人    

[4]『国家』Ⅴ.471C~474C。哲人王思想が理想論か現実論であるかどうかは、議論が尽きぬ点である。今回用いた『ゴルギアス』において、ソクラテスは最後に死後の世界の説明を行うことで、善が何においても優先されるという持論の補強をしている(523A)。ここから言えることは、現世において快い善人が現れることは、ほぼあり得ないのではないかということである。快い善人はもはや天上の存在であり、地上においての正しき法は、その正しさのあまり、快に与れない形でしか表出できないのではないかと筆者は推測する。

[5] 例えば、完全な統治を成し、自らも快くいられる支配者より、人の痛みを知っている善人の方がよいように思われるということである。

シモーヌ・ヴェイユにおける「女性的なもの」をめぐって ―力と愛の領域における女性の表象を捉える

〈序論〉

 本稿は、フランスの思想家、シモーヌ・ヴェイユの思想における「女性的なもの」を探るために作成されたレポートである。したがって本論では、彼女が取り上げる女性の表象を追い、そこにどんな関連性があるのかを検討する。流れとしてはまず、ヴェイユの思想における二つの側面、力の思想と愛の思想について説明し、一般的には矛盾するとされる二つの領域が、彼女の思想においては両者とも必要となることを明らかにする。次に、力の領域、愛の領域における女性・男性の表象の具体例をそれぞれ取り上げる。また、愛の領域におけるヴェイユの性の取り上げ方が、異性愛の表現に偏っていることを指摘する。結論としては、ヴェイユが取り上げる女性の表象は、力の領域においては無力かもしれないが、それゆえに愛の領域へと至ることができるという、彼女の思想の重要な部分を占めていることを説明する。

 今回のレポートでは、ヴェイユの信仰や宗教の領域を代表する語を一つに定めることができなかったため、便宜的に「愛」という語を用いた。愛という言葉は、非常に広い意味を持つ言葉であり、注意が必要である。ここにおいての愛とは、神を愛そうとする愛、もしくは神による我々への普遍的な愛の双方のことを指す。この愛は、何かを望むことをしない。神による恩寵は、報われなくとも愛し続けることができる者にのみ与えられる。一般的に用いられる愛とは、意味が異なることに留意してもらいたい(第3章で触れる友愛や同性愛については、この限りではない)。

 

〈本論〉

1.二つの領域、力と愛について

 前述したように、ヴェイユの思想には主に二つの側面が見られる。一方は政治や社会の領域、力の思想であり、もう一方は、神や宗教の領域、愛の思想である。

 ヴェイユによると、力はもっぱら悪にしかならない。力の犠牲となった者も、自分が力を持った途端に力を振るい、悪を繰り返す。力は人々を容赦なく傷つけ、束ね合わせ、従わせる。集団として束ねられた大衆の信念は、飼い主たる人々がコントロールできないほどの「巨獣」[1]となる。人々は次第に、自分で考えることをやめ、自らの所属する集団の意見に追従するだけとなる。自らが正義たらんとする集団も、簡単に悪になりうるとすれば、本来の正義(善)は、どこに依拠すればよいのか。

 ここにヴェイユの思想のもう一つの側面、比較を絶する形而上の善、すなわち神に対する霊的な領域に足を踏み入れる必要が出てくる。彼女自身の言葉ではこう語る。

超越的なもの、超本性的なもの、真に霊的なものの領域に入りこんではじめて、人間は社会的なものを凌駕できる。それまでは事実上、どうあがいても社会的なものは人間にとって超越的でありつづける。(『重力と恩寵』36-6)

 神を愛すること、それは時に、現実を放棄した諦観の念として受け取られることもあるが、ヴェイユの神に対する姿勢は、あくまで社会の中で求められるものである。彼女にとって、社会的な活動は、自身と神を繋ぐ仲介としての作用を持つ。労働や献身を介して、恩寵を受け取るのだ。この行為は、社会は改善すべき対象であるが、救いを求めるべき対象ではないことを意味する。社会に救いを求める者は巨獣に飲み込まれる。救いは神に求めなくてはならない。

 彼女の著作のうち、最も有名な『重力と恩寵』は、力と愛の二つを象徴するタイトルとなっている。重力とは、物理法則に従わせるかのように機械的に作用する、この世に生きている限り逃れることのできない苦しみを指す。力を持つ者と持たない者が、互いの生存をかけて傷つけあうことしかできない世界には、重力しか存在しない。一方で恩寵は、重力によって苦しめられた者が賜りうる、神による絶対的な愛を指す。『重力と恩寵』はヴェイユ本人が付けたものではなく、友人のティボンが、彼女から託されたノートを編纂し付けたものである。彼女の思想に見られる二つの側面を、おそらくティボンも感じていたのだろうと推測される。

 以降の項では、この力と愛のそれぞれの領域における性の表象について、分析していきたいと思う。

 

2.力の境域における女性・男性の表象

 ヴェイユは、普遍の真理は時代と場所を問わず、また宗教や民族も問わず、あらゆる場所から見出されると信じていた。そのため彼女は、文学や演劇から始まり、世界各地の民話や神話、童話などの民間伝承に至るまで、さまざまな物語を持ち出し、その登場人物や道具を隠喩として解釈することで、それを神と人間の関係に当てはめようと試みた。

 この項では、ヴェイユが解釈したテキストに見られる、力の領域における男性・女性の表象について説明する。彼女が残した著作のうち『重力と恩寵』と、古代ギリシャに関する断章をまとめた『ギリシアの泉』から、『イリアス』、『エレクトラ』、『アンティゴネー』、およびジャンヌ・ダルクへの解釈を取り上げたい。

 

・『イリアス』における男性の表象

 『イリアス』において、男たちは殺し合う。どちらかが滅びるまで。戦から帰ったヘクトールに対して、妻は風呂を勧めるが、彼はそれを断る。その後、彼は再び戦場に出ようとするが、勝ち目のない戦いに行かないでほしいと妻に懇願される。ヘクトールはこう返す。

さあ、そなたは家に帰り、機を織るなり糸を紡ぐなり、自分の仕事に精を出し、女中たちには各自仕事にかかるように言い付けるのだ。戦さは男の仕事、このイリオスに生を享けた男たち皆に、とりわけてわたしにそれは任せておけばよい。(『イリアス』6. 490-3)

 風呂も機織りも、本来なら生活に欠かせないものだ。しかし、争いの場においては顧みられることがない。生きるか死ぬかの瀬戸際なのだから。力は、人の魂を生きながらにして死んだモノへと変えてしまう。『ギリシアの泉』に収録されている『「イリアス」、あるいは力の詩編』というヴェイユの論文においては、上記の場面も含め、『イリアス』のなかの凄惨な場面を分析し、人々が感情や魂の躍動を失っていくさまを克明に描いている。彼らの惨たらしいまでの争いは、魂を押しつぶし、生命を物象化してしまう力の恐ろしさを今に伝えている。

 

・『エレクトラ』における女性の表象

 男たちが殺し合う一方で、女たちはその力に翻弄される無力な存在であった。しかし一方で、男たちが戦争に出たことで、一部の女は、その隙に街に残った男と姦通し、力をわが物にした。ミュケーナイの王族の元に生まれたエレクトラは、そうした計略によって父を母に殺されるという、力の奔流に飲まれた一人であった。彼女は王位を簒奪した母とその愛人から、極めて凄惨な扱いを受けた。しかし彼女は、無力でありながらもそうした迫害を必死で耐え抜き、正しくあろうとし続けた。

 最終的にエレクトラは、一縷の望みであった弟オレステスとの運命的な再会をし、母たちへの復讐を果たす[2]。この結末は、復讐を果たすという点では力の表象であるかもしれない。しかし、ヴェイユの解釈においては、このオレステスはキリスト、つまり神の比喩だとされており、隠された神秘と人間の魂の関係として扱われている。この点については後述する。

 

・『アンティゴネー』における女性の表象

 エレクトラが無力でありながらも、力による馴致を耐え抜く勇気を見せたように、『アンティゴネー』もまた、自分の信念を貫いた女性の物語である。テーベの王族の元に生まれたアンティゴネーは、兄弟たちの王位をめぐる争いに翻弄される。兄弟は互いに刺し違えて死に、叔父が代わって王になる。叔父は、国家に反逆した罪として、一方の兄弟の遺体を野に晒す。アンティゴネーは兄弟への愛ゆえに、この屈辱的な扱いを受け入れられない。彼女は遺体に触れてはならないという禁令を破り、兄弟を埋葬しようとする。結局彼女は捕えられ、生き埋めの刑にされる。アンティゴネーは最後まで自分のしたことを正しいと信じていた。「私は憎しみを分かつためではなく、愛を分かつために生まれたのです」(『アンティゴネー』523)と言い切った彼女の愛は、ある意味愚かでさえあった。

 彼女の表象は、無慈悲な力の翻弄を前にして、それとどう向き合うかという悲劇の女性の表象に留まらない。彼女の身に降り注ぐ不幸は、その分だけ神との隔たりを示す。愛を信じたまま死んだ彼女は、後述する神への愛の体現者でもあった。二つの領域は、常に重なっているのである。

 

ジャンヌ・ダルクという女性の表象

 人間が力に飲み込まれるのは、生きている間に留まらない。巨獣は、死者さえも食らい尽くす。一度は魔女として断罪された果てに、再びフランスの国民的英雄となったジャンヌ・ダルク。彼女の表象には、複数の「読み」[3]が重なっている。

 彼女の表象は、反ユダヤ主義の機運が高まったときには純潔のガリア人として、カトリックにおいては殉教者として、王党派にとっては王を戴冠させた英雄として、民衆にとっては平民出身の英雄、また貧者の慰め手としてなど、あまりに多くの人々によって、都合よく解釈されてきた。もちろん現代では、フェミニズムの象徴にもなっている。前述したように、ヴェイユにとって社会的な集団は巨獣である。ジャンヌは、それらの巨獣を束ねる接点とされているのだ。巨獣の数と大きさに埋もれて、彼女の本来の行動や信条は、もはや読みよることができそうにない。

 ヴェイユはジャンヌのことを(これは彼女の「読み」ではあるが)、武力に依らぬ抵抗の象徴として捉えていた(『重力と恩寵』29-4)。彼女にとってのジャンヌとは、力に翻弄されながらも、それを拒む、まるで嵐の目のような静謐さのなかで祈り続ける存在として描かれていたのかもしれない。

 

3.愛の領域における女性の表象

 では、愛の領域においては、性はどのように表象されていたのだろうか。ヴェイユはしばしば、男女が苦難の果てに結ばれる物語を取り出し、それが「神と人間の懸隔」[4]を示すものだという解釈を残している。前述したように、この地上に善は存在しない。神と人間の間には、無限にも等しい隔たりがある。しかし、地上に誇るべき善が存在しないとして、それでも神を愛し続けることができるのならば、その愛は無限の懸隔を超えうるものとなる。そして、神はつねに私たちを愛しているのだから、この愛は双方的なものである。『ノロウェイの黒牛』[5]は、そうした神と人間の懸隔の比喩を秘めているとヴェイユが解釈した物語の一つである。物語の要約を以下に示す。

 ある国の美しい王女が、ひょんなことから牡牛と結婚し旅に出る。牡牛は夜の間だけ人間の姿に戻るが、暗闇の中でその姿を見ることはできない。王女は人間に戻った姿を一目見たいと思い、牡牛が寝ている隙にその毛皮を燃やしてしまう。王女は一瞬だけ、美しい青年の相貌を捉えるが、その人は彼女の目の前で消えてしまう。彼女は彼を探すことを決意する。長旅の末、彼女は彼がノロウェイの王子であることを突き止め、ノロウェイ公の城に女中として入る。彼女は王子を探すためにあらゆる装飾品も身分を失っていたのだ。一方で王子は、意に沿わぬ婚約者によって婚姻の日まで眠らされており、王女が呼びかけても起きることはなかった。王女は絶望しかけるが、それでも彼に呼びかけ続ける。最後の最後で王子は目覚め、王女のことを思い出す。二人は婚約者に化けていたトロルを追い払い、晴れて結ばれる。

 この物語において王女は神の表象であり、牡牛は人間の表象である。王女(神)は美[6]という誘惑によって牡牛を導き、彼を肉のまどろみから目覚めさせる。一方で牡牛は、獣性が混ざった人間であり、神の企みによって肉という隔てなしに神と出会いかける。肉なしで神と出会うことは死を意味する。肉体は死を恐れ、そこから逃げ出す。

 王子が消えた後、王女は自らの持ち物を犠牲にしてまで彼を探し、卑しい身分に身をやつした末に彼と再会する。これは、神が外観の輝きを失った姿、つまり神という普遍の真理(善)が、それがもたらす恩恵や評判を失った姿で現れるということを意味する[7]。神は人間が善の内実を求められるかどうかを試すのだ。ここで人間が愛を捨てずに善を信じ切れるのならば、善は本当の姿を我々に見せる。物質を凌駕する愛は、超越的な結合を引き起こすのだ。

 ヴェイユはこのおとぎ話以外にも、いくつかの物語や神話において、男女が結ばれる話を神と人間の懸隔として例示している。その解釈において、神や人間はどちらの性別に対しても割り当てられており、それほど性との間に関連性があるようには見えない。ヴェイユにとって、神に「父」という形而下の性質は関わりがないようである。

 

・物語の解釈における偏りについて

 筆者が気になるのはむしろ、ヴェイユによる物語の解釈の題材が、自分の知る限り、ほぼ異性間の関係に基づくものだということである。ヴェイユは情欲に基づく愛を堕落したものとし、プラトニックな愛を正当だと考えていた。もちろん、民間伝承は昔から語り継がれてきたものであり、同性愛などを正面から描きにくかったという節はあるだろう。しかし、精神的な愛に性別は全く関係ないのだから、彼女が同性愛に基づく愛の表象を全く取り上げなかったことは、多少不思議なことに思われる。また、ヴェイユは同性愛に対して、それを極端に悪いものだとする記述を『重力と恩寵』に残している。以下は引用である。

 ヨーロッパ以外の諸文明。瑕疵の存在じたい、それらが依拠する宗教の不完全さの証拠であるとされる。ところで、ヨーロッパにおける過去二十世紀の歴史を振り返ると、他の文明に負けず劣らずの瑕疵が容易に見つかる。アメリカ大陸を虐殺により、アフリカ大陸を奴隷制により荒廃させ、南仏を度重なる殺戮によって蹂躙した。これらはギリシアの同性愛の風習、ギリシアやインドの乱痴気騒ぎの祭儀に文句なく匹敵する。(『重力と恩寵』30-1)                                                                                        

 この引用はヨーロッパ文明が陥る自己正当化を指摘したものであり、そのなかで同性愛は、虐殺に匹敵する瑕疵だと説明されている。彼女はなぜ、同性愛という言葉をこのように扱ったのだろうか。

 他の言及に目を向けてみると、彼女は同性愛のことを「不可能な愛」と呼んでおり、中世の宮廷風恋愛(ミンネ)と重ねている(同上p.395)。このミンネとは、騎士と貴婦人が結ぶ、精神的な愛の文化のことである。ヴェイユが同性愛とミンネのどちらのことも不可能な愛と呼んでいたならば、この不可能とは、単に否定的な意味ではなく、現実の位相において不可能な愛、すなわち精神的な領域で結びつく愛を示しているように思われる。そう考えると、彼女によるいくつかの同性愛に対する不当な言及は、いずれも「情欲的な」という意味が暗に込められていたと考える方が自然である。読者に勘違いをされることがないように、より詳しい補注を加えた方がよいと思われる[8]

 

〈結論〉

 本論ではこれまで、ヴェイユの思想における女性の表象について分析してきた。結論としては、ヴェイユの取り上げる女性たちは、現実的には無力だが、その不幸の隔たりを持ってして愛の領域へと至る存在だということが明らかとなった。

 ヴェイユにとって、性は本質的な問題ではなかったかもしれない。彼女にとって重要だったのは、あくまでも力に支配されるか、それとも神を愛せるかの二つであったことは、まず間違いない。しかし彼女の思想は、多くの勇気ある女性の表象によって支えられており、決してそれなしでは成立しえないものである。また、彼女の愛に対する考えは、エレーヌ・シクスーの言う〈女性性〉に似た部分を思わせる。そして『イリアス』で見たように、力はかつて男性のものだった。これからの社会を考えるにあたって、私たちはこれまでの〈男性〉的な力ではなく、〈女性〉的な愛を持って、善の根拠を捉える必要があるだろう。

 

〈参考文献〉

プラトン 『国家』 上下巻、藤沢令夫訳、岩波文庫、2008年。

ホメロスイリアス』下巻、松平千秋訳、岩波文庫、1992年。

ソフォクレスアンティゴネー』中務哲郎訳、岩波文庫、2014年。

シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』冨原眞弓訳、岩波文庫、2017年。

―『ギリシアの泉』冨原眞弓訳、みすず書房、1998年。

・冨原眞弓『ヴェーユ』、清水書院、1992年。

栗田隆子シモーヌ・ヴェイユにおける『社会的なるもの』と『隣人愛』をモチーフに女性の『声』について考える」、『臨床哲学』、19巻、2018年、pp.128-145。

 

計7805字

 

[1] 「巨獣」とはプラトンの『国家』第6巻にて語られる、大衆が体現する社会のことを指す。自身も構成要素の一つである社会から被る影響は無自覚に入り込み、意識にのぼることがない。社会を疑おうにも自己欺瞞がはたらき、疑念はすぐに隠蔽されてしまう。この無意識の共犯関係が、巨獣への抵抗を難しくさせる。これについて、栗田(2018)は、現代のフェミニズムもまた巨獣になりうると指摘している。その論文では、フェミニズムに必要なのはただ団結することではなく、一人一人の声に耳を傾けること、「注意力(この語はヴェイユの思想の核を成す重要な用語である)」の必要性を語っている。こうしたアプローチについても、別の場を設けて考えてみたい。

[2] オレステスは当初、母たちを誤魔化すために自らの死を偽装する。彼が送った嘘の骨壺を受け取ったエレクトラは、父の墓前で絶望し泣き出す。しかしそこにたまたまオレステスが訪れ、言葉を交わしているうちに二人は再会したことに気づく。

[3] ヴェイユが独特の含意を込めたこの「読み」は、人それぞれの解釈や価値判断のことであり、他者を理解することの難しさや、自分の信念の正しさへの懐疑を示す際に用いられる。読みは正しいこともあれば、誤ることもある。正しく読みとるには、「注意力」が必要である。そしてまた、読みは強い動機を与える。読みを分かり合うことは難しいが、一方で強い他者の主張に服従させられることもある。誤った読みが広がれば、それは大きな悪を生む。ジャンヌ・ダルクは、この読みの多さによって正しく読みとることが難しくなってしまっていると言えよう。

[4] エレクトラオレステスの再会もまた、そうした神と人間の関係としてヴェイユは捉えている。「死せるオレステスを悼んで泣くエレクトラ。われわれが神は実存しないと考え、なおかつ神を愛するなら、神はその実存を表すだろう」(『重力と恩寵』4-17)

[5]ノロウェイの黒牛』は、『太陽の東 月の西』や『鷹フィニストの羽根』など、類型が多く見られる話である。これらの原型には、『黄金の驢馬』に出てくる「クピードーとプシューケー」の神話が関係していると推測される。作者のアプレイウスは哲学者としても活躍した人物であり、彼自身の哲学的意図とヴェイユの解釈の相違点や関連性を探ることも、ヴェイユの思想の可能性を広げうる一つの方法になると思われる。

[6] ヴェイユは美を、現世における神の臨在だと捉えていた。彼女によると美とは、それがそれのままであり続けることを私が望むもの、「なぜ」という念を忘れるほどの印象を与えるもの、必然性と完全性を有するものを指す。また、美は神が用意した人間への罠であり、人間を誘惑して捕える(神への従順)と解する。例として、ヴェイユはハデスがペルセポネを妻にする神話を解釈し、彼女を誘惑する際に用いた水仙と、デメテルの元に返す際に渡した柘榴の実に、美の性質を見出している(『重力と恩寵』p.341)。

[7]この善の外面ではなく内実を求める義人の話は、プラトンの『国家』第2巻に詳しい。

[8] 別の考え方としては、情欲がないならば、それは友情、もしくは友愛に属するものだとヴェイユが捉えていたという道がある。『重力と恩寵』第14章「愛」において、友情という言葉は、愛に匹敵するものとして用いられている。ヴェイユが同性愛という語を用いた時点で、それは性愛を意味するものだったということは、想像に難くない。