電子の雑煮

レポートが苦手な大学生です。苦手を克服するためにレポートを公開したいと思います。

中世荘園制の成立について

 荘園とは、古代・中世を通じて存在した私的土地所有の一形態である。だが荘園は、単なる私的土地所有にとどまらない公的・国家的性格を有しており、中世の土地制度を構成する荘園と公領は、異質で対立していると見るよりも、共通する部分が多くあるものと見たほうが正確である。こうした見解を「荘園公領制」と言い、1973年に網野善彦によって提起されて以降、今日の荘園研究の基本理解となっている。

 荘園の性質は、11世紀半ばまでの、主に開発領主が開発や管理を担う「免田・寄人型荘園」と、荘園整理令が発布されて以降の、院や摂関家、権威のある寺社など、荘園領主側が中心となって管理を行う「領域型荘園(寄進地系荘園)」の2種類に大別される。後者の領域型荘園とは、各地に点在していた荘園が、寄進によって有力者の元に集合した体制であり、これによって荘園の公領化が推し進められた。勝山(1995)によると、11世紀末以降、荘園の年貢史料において、賦役が「公事」と称されていることから、荘園という存在が、単なる土地・人への支配関係から、公的なものへと変質したことを意味しているという。

 ここからは、中世荘園制が成立するまでの政治過程を追う。

 朝廷は11世紀中頃より、荘園の増加による公領の減少を危惧し始めていた。長久元年(1040)、延久三年(1069)に、朝廷より荘園整理令が発布されると、事態に変化が訪れる。これらの荘園整理令によって、正式な許可を得ていない荘園は公領として扱われ、課税の対象となった。開発領主側は、収公(許可のない荘園を公領に組み込むこと)された土地を放棄し、また新たな荘園の開発を差し止められる事態となり、混乱を来たした。

 元々この頃までの荘園にも不輸不入の権利は認められていたが、「一国平均役」という例外があった。これは、内裏造営などの国家事業や行事の経費のために、公領・荘園を問わず徴税や賦役を課すという命令であり、受領が朝廷に許可をもらうことで発行することができた。この一国平均役には寺社への課税を免除する規定があったが、受領はしばしばその規定を無視し、寺社にも課税を強要するケースが少なくなかったという。

 本来免除されているはずの課税を負わされた東大寺の荘園は、このことに抗議の意を示し、朝廷に永続的な不輸不入の権利を要求して、それを獲得する。各地の荘園は、権威のある寺社や上皇などに寄進することで、より確実な不輸不入の権利を得られることに気づき、寄進が相次いだ。結果的に各荘園が大規模なものとなり、荘園が公的な領地として扱われる傾向が強くなっていった。

 こうした中世荘園の原型は、白河院の周囲の人間関係によって形成された、近江国柏原荘・越前国牛原荘にあると見られている。こうした私的縁故、人脈による荘園形成は、中世荘園全体を通した特徴となる。この、院が主導となって立荘するという特徴は、一方で院自らが荘園整理令を出して荘園を公領に合流させながら、他方で自らが所有する荘園を統合、拡大させていくこととなり、自ら矛盾を抱えたまま政策を行っていたこととなる。

 興味深い現象として、中世荘園の年貢史料にはしばしば、実態にそぐわない高い年貢高の記録が散見される。これは、荘園を形成する以前に、先に取れそうな年貢高を本家と領家が話し合いで決めていたことが理由のようであり、稼働している本免田だけでなく、荒田の再開発や開発を含めた年貢が設定されていたと目されている。(1390字)

 

〈参考文献〉

・鎌倉佐保(2013)「荘園制と中世年貢の成立」『岩波講座 日本歴史 第6巻 中世1』、岩波書店、pp.131-162。