電子の雑煮

レポートが苦手な大学生です。苦手を克服するためにレポートを公開したいと思います。

ソ連における農民について

1.序論

 本稿は、第二次世界大戦以前までのソ連において、農民がどのような役割を担ったのかを検討することを目的としたレポートである。したがって本論においては、それぞれの時代における農民の状況と、それに関わる政治的動向を追いながら、ロシア帝国時代、ロシア革命・内戦期、ネップ期、農業集団化の4つの時期に分けて論じていく。

 

2.ロシア帝国時代の農村

 ロシアの農村は中世以来、ミールという共同体による農業を営んできた。1861年農奴解放令が出されると、農地の所有は地主から国有に移ったが、それは無償で農民に配分されるわけではなく、農民は借金をする形で、農地を利用した。この借金は年間地代の約16倍の額であり、普通の農民が支払うことは不可能だった。土地の所有・管理はミールに委ねられ、そこから分配される仕組みで経営された。農法としては三圃制を取っており、決して効率がよいわけではなかったが、少しずつ余剰作物の蓄積がなされ、鉄道網の整備とも相まって、次第に都市に流通する量を増やしていった。

 農村の発展が進むと、土地不足が問題になり始めた。また、均等に土地が行き渡るように、痩せた土地と肥えた土地を細分化して分配し、管理の手間も増えていった。1世帯あたりの土地を細長く分割した地条stripsが、当時の農村の特徴であった。家から遠い場所に、細切れに土地が割り当てられるケースもあったという。そのため、一部の農民は新たな農地を求めて、従来農地が集中してきたモスクワ近辺の黒土(チェルノーゼム)地帯を抜けて、西シベリア、北カフカスなどに移住するようになっていった。しかし、それ以上の地域は土質がチェルノーゼムではなくなってしまうため、拡大にも限度が見られた。20世紀初頭の農村では、一人当たりの土地が減少し、生産能力が落ちていたことが分かっている。

 第一次世界大戦が勃発すると、農民は兵士として駆り出された。しかし、戦闘の長期化によって食糧難が深刻となり、ロシア軍には厭戦気分が蔓延した。当時の農村では、ナロードニキの流れを汲む社会革命党(通称エス=エル)の支持が圧倒的だったが、一部のボリシェヴィキはこの間に農村に入り、呼びかけを繰り返して農民の支持を得ていった。わずかではあるが農民ソヴィエトが形成され、彼らは共産党の支持基盤として機能した[1]

 

3.ロシア革命期における農村

 三月革命によってニコライ2世は退位したが、次いで建てられた臨時政府は戦争を継続する判断を下した。また臨時政府はボリシェヴィキを危険視し、圧力を加えていったが、彼らの勢力は規模が拡大していたために、抑え切ることは不可能であった。4月にレーニンが帰国し、「四月テーゼ」が発表されると、即時停戦と土地の無償分配に農村は沸き立った。続いて十月革命が起き、ボリシェヴィキが政権を奪取すると、彼らに反対する勢力が独立を始めた。ロシア内戦である。

 ボリシェヴィキは都市と赤軍に食糧を確保するために、この事態を「戦時共産主義」と称し、「食糧独裁令」を制定した。これは、農村に武装部隊を派遣して食糧を徴発する、農民からしてみればとんでもない命令であった。これを制定したのは、党官僚として頭角を表し始めながらも、まだ無名だった頃のスターリンだった。ボリシェヴィキを信じた農民にとっては、この命令は裏切られたに等しかった。理不尽に見舞われた彼らは、同じく武器を持って抵抗した。ボリシェヴィキが作る赤軍と、反ボリシェヴィキ勢力と欧米列強が連合して押し寄せてきた白軍の争いに、農民反乱軍の緑軍が加わり、戦局は混迷を極めた。結局、ボリシェヴィキがこの戦いを制し、争いを鎮圧した。またボリシェヴィキは、内戦に乗じて独立しようとした非ロシア系の勢力に対して、共産党以外の党派による独立も認めず、そうした勢力が議会を占めた場合には、これも鎮圧した。

 1922年に、ソヴィエト社会主義共和国連邦は成立した。この中には、多くの非ロシア系の連合共和国が含まれていた。例えばモスクワに隣接するウクライナは、その国土の大半がチェルノーゼムであり、優れた穀倉地帯として機能した。それは一方で、他民族を抑圧して引き出した資源でもあった。

 

4.ネップ期における農村

 内戦を乗り越えて成立したソヴィエト政権にとって、目下の課題はいかにして経済を立て直すかであった。二つの戦争を経て、国内の経済は著しい打撃を受けていた。20年の農業生産は戦前水準の6割強にすぎず、工業にいたっては戦前の2割程度にまで落ち込んでいた。政府は手始めに、農民への穀物徴発をやめて累進的な現物税を採用した。これは、市場経済の一次的な復活を意味し、資本主義の克服を目指す共産主義と矛盾していると、党内でも意見の分かれるものであった。この時期は1927年まで続き、ネップと呼ばれた。

 1924年にはレーニンが亡くなり、後継者争いが勃発した。スターリンは、赤軍を指導するライバル、トロツキーを失脚させるために、古参の幹部のジノヴィエフカーメネフと結託し、排除した。しかし、スターリンの謀略は続く。当時、党員の中には右派、つまり、現状を保ち、農村にこれ以上の手は加えず、工業は漸次的な発展を目指す立場の者が多かった。スターリンはそこから、右派の幹部、ブハーリンやルイコフと接近し、左派、つまり、農村からより多くの穀物を取り立てて、穀物の輸出を推し進め、それによって得た資金を工業の発展に充てることを主張していた派閥、つまり先述の、トロツキージノヴィエフカーメネフらを攻撃した。最終的にスターリンは、農民政策の転換の中で、右派の幹部をも失脚させ、独裁を完成させていった。

 1927年、つまりネップの終わりは、イギリスとの国交断絶がきっかけとなった。政府はこれを利用して戦争の噂を喧伝し、軍需産業への投資を集中させようとしたが、これが農民の不安を煽り、穀物の市場流通量が激減、「穀物調達危機」が発生したのである。翌年、政府は非常措置として、再びの徴発を実施した。これによって得た成果をスターリンは「評価」し、これを機に、政府は農民に対して弾圧を持って彼らを従わせる方針を取っていった。

 

5.農業集団化

 当初、農業集団化は、長期の目標として掲げられたものに過ぎなかった。事態が変わったのは、穀物調達危機の発生である。政府はこれを、穀物を大量に隠し持っている「クラーク(富農)」の陰謀だと考え、農村に武装部隊を送り込み、徴発を行った。しかし、戦争の混乱を乗り越えて数年経った程度の当時の農村にクラークなどいるはずもなく、いるのは貧農のみに等しかった。政府は反抗する農民に対して、粛清してでも徴発を行った。この農村との敵対が、スターリンの集団化政策と結びついていった。農村を、完全なコントロール下に置こうとしたのである。

 1928年5月に、スターリンは農業の集団化が穀物問題を解決すると発表した。これによって、コルホーズの形成が開始された。コルホーズとは、訳語では集団農場という意味を持つが、その内容は、作物の大半を国家に接収されるというものであり、農民からすれば地獄のような話だった。実際、コルホーズ形成後の農民は、自宅の周辺に与えられたわずかな住宅付属地のみで飢えをやり過ごした。

 政府は集団化に抵抗する農民を全てクラークだと見なし、大量の粛清を行った。この一連の集団化政策で犠牲となった農民の数は、全体で500万~700万人の規模であったと推定されている。穀物供出は農村のミールを通して決定されていたため、村全体が穀物を出し渋れば、村ごと粛清する場合もあった。

 しかし、このあまりに苛烈なやり方に、地方の共産党員も疑問を抱き始め、作業が停滞していった。1930年3月に、スターリンは「成功の幻惑」という論文を発表し、一時的な集団化の緩和を行ったが、これはむしろ農民のコルホーズからの大量脱退を招き、同年の秋には再開された。農民の逃亡も相当数報告されたため、1932年には、国内旅券制度が導入され、農民は許可なく移動することを禁じられた。

 1932年には、大規模な飢饉も発生したが、忠実なスターリン派の幹部が各地に派遣され、緩むことなく弾圧は行われた。幹部のモロトフは、播種用の穀物すら残さぬよう指示したと言われている。1933年に、スターリンは農民に対する抑圧の緩和を発表し、農業集団化は一定の区切りを見せた。最終的に、農民の約60%がコルホーズに統合されたという。

 

6.結論

 本稿ではこれまで、第二次世界大戦以前までのソ連において、農民がどのような役割を担ったのかを検討してきた。議論を概説すると、ロシア帝国時代の農村は、中世以来のミールという共同体によって運営され、生産性は芳しくなかったが、それでも少しずつ改良されていた。十月革命の前後になると農村は、戦争を終わらせ、土地を無償で分配するというボリシェヴィキの目標に賛成したが、結果としては穀物を徴発されるという最悪の手段で裏切られ、農村は必至で抵抗した。それが過ぎてネップ期に入ると、政府は農村との仲を回復させようとし、現物税の手段を取った。しかしこれは長くは続かず、穀物調達危機の発生を機に政府は再び農村を弾圧し、強制的に農業集団化を推し進めた。抵抗する農民は政府に粛清され、その数は500万~700万人に上った。

 結論としては、ソ連における農村は、国家の要でありながらも苛烈な搾取の対象とされたということである。農村は多くの犠牲者を出しながら、ミールからコルホーズへと変質し、ソ連の基礎を支え続けた。本来は、国民と統治者の関係であるはずの彼らが、どうしてここまで対立を深めたのか、歯止めが効かなかったのかは、筆者の想像力ではまだ描くことができない。この時に党員たちの内心に生まれたスターリンへの不信感が、大テロルの遠因となっていく。地獄が次なる地獄を呼ぶのである。

 

〈参考文献〉

下斗米伸夫『ソビエト連邦史 1917-1991』、講談社(講談社学術文庫)、2017年。

中嶋毅『世界史リブレット人 089 スターリン 超大国ソ連の独裁者』、山川出版社、2017年。

松戸清裕ソ連史』、筑摩書房(ちくま新書)、2011年。

梶川伸一「最近のロシア農民史研究について—農村共同体を中心に」『史林』、史学研究会(京都大学文学部内)、73巻4号、1990年、pp612-632。

 

計4060字(表題部除く)

 

[1] 農村におけるボリシェヴィキの浸透具合は、書き手によって記述が大きく異なっている。下斗米(2017)は、ボリシェヴィキは農民からも多大な支持を得たという旨の記述をしているのに対し、松戸(2011)は、ボリシェヴィキは農村に拠点を持たなかったと記している。