電子の雑煮

レポートが苦手な大学生です。苦手を克服するためにレポートを公開したいと思います。

『バガヴァッド・ギーター』におけるヨーガについて

1.序論

 現代においては、ヨーガとはもっぱらスポーツや健康法としての意味が強いが、本来はもっと多義的な意味を持つ言葉である。現代の意味と本来の意味の区別を付けるために、筆者は今回、『バガヴァッド・ギーター』(以下『ギーター』)におけるヨーガの意味とはどのようなものかという問いを立てて、他の用語も確認しながら、これについて説明したいと考えている。『ギーター』は、まだ授業では扱っていないかもしれないが、個人的に関心があるため、今回の課題の対象に選んだ。

 本論ではまず、『ギーター』が成立するまでの思想史を簡単に説明する。次に、押さえておくべき前提となる『ギーター』の世界観について説明し、最後にヨーガについてまとめる流れを取る。

 用語の表記については、訳語が一般的と思われる場合においては訳語を先行させ、そうでない場合はカタカナ表記のものを先に示すことにした。

 

2.『バガヴァッド・ギーター』の成立まで

 まずは、授業の振り返りを兼ねて、『バガヴァッド・ギーター』が成立するまでのインドの思想史を簡単に振り返り、議論の前提として必要な概念について説明したい。

 紀元前1500年ごろにアーリア人がインドに移住してくると、彼らは独自の宗教を打ち立てた。そうした思想や呪文は、前1200年ごろに『リグ・ヴェーダ』として編纂された。それから700年ほどをかけて、その他のヴェーダ文献が成立し、その最後に、ウパニシャッド(奥義書)と呼ばれる汎神論的性格の強い哲学書が登場した。これらの文献を生み出した思想・宗教の総体をバラモン教と呼ぶ。

 ウパニシャッドにおいては、それまでのヴェーダにおける多神教的な性格から、唯一神(原理)への移行が見られ、そうした万物の根底を成す原理、あるいは最高神のことはブラフマンと呼ばれた。対して、人間存在の規定については、自己について内省した果ての、真の自己のことをアートマンと呼び、さらに、この個人の本体であるアートマンは、最高存在ブラフマンと同一であるという「梵我一如」という考え方が成立した。こうしたウパニシャッドの考え方は、後のヒンドゥー教思想全般の要となった。

 前6世紀になると、生産や技術の発展によって、それまでの身分制度に基づく社会体制が揺らぎ、反ヴェーダ思想が登場していった。この中でも、特に仏教とジャイナ教の隆盛はすさまじく、バラモン教は変革を迫られていった。そうした変革の中で、バラモンを上位の階級に置きながらも、民衆が中心となって信仰が担われるようになり、現在まで続くこの宗教はヒンドゥー教と呼ばれるようになった。

 ヒンドゥー教においては、バラモンはよりその学問的性質を強めた。彼らは紀元前2世紀ごろに、六派哲学と呼ばれる様々な形而上学理論を持つ学派を形成し、ウパニシャッドの原則である梵我一如を唱えつつも、そこに至るまでの多様なプロセスを展開した。

 民衆の信仰においては、紀元前2世紀に『マヌ法典』が成立した。『マヌ法典』の内容は、法律や統治のあり方、各身分が果たすべき社会的役割や規律についてなど多岐に渡り、特に、ヒンドゥー教徒が目指すべき人生の四大目的が規定されたことは特筆される。その4つとは、ダルマ(義務、法)、アルタ(実利)、カーマ(愛欲)、モークシャ(解脱)の4つであり、特にモークシャは、最終的に全ての人が目指すべき最大の目標とされ、人々は輪廻の世界から解放されることを何よりも望んだ。この解脱のために、ヨーガという概念・方法が発達した。

 加えて、紀元4世紀までには、インドを代表する二大叙事詩の『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』が成立した。特に『マハーバーラタ』は、紀元前4世紀から存在が認められるようであり、この物語は、当時の思想潮流の様々な面を併せ持つ文献として、次第に発展していった。その思想的側面が最もよく表れている6巻冒頭の箇所が『バガヴァッド・ギーター』である。『マハーバーラタ』があまりに長大であるために、『ギーター』は独立した書物として扱われる。また『ギーター』は、サーンキヤ学派やヴェーダーンタ学派など、学派を超えて聖典とされる。『ギーター』はその成立の過程からして、バラモンだけに読まれる文献ではなく、万人に開かれたものだと言うことができる。このことは、本書が、階級の差を超えて救済されるというバクティや、出家することなく己の義務に専心する行為のヨーガを強調することからもうかがえる。

 当時のヒンドゥー教社会においては、最高神としての人格神には、ヴィシュヌ神シヴァ神の二柱が特に信仰された。『ギーター』においては、最高神ヴィシュヌ神であるとされている。ヴィシュヌ神は、化身として人間界に顕現するという信仰があり、『マハーバーラタ』(および『ギーター』)の登場人物、クリシュナもヴィシュヌ神の化身だとされる。クリシュナの口を通して、全ての奥義が語られる。 

 

3.『ギーター』の創成哲学、認識論

 次に、ヨーガを説明するための前提として、『ギーター』における世界観、つまり、世界がどのようにできているのか、人間はどのように世界を見ているのか、といったことについて説明している箇所をまとめる。

『ギーター』において世界を構成しているのは、プラクリティ(根本原質)という概念だと言われる。プラクリティより様々な要素(グナ)が生まれ、展開していくことで、それが世界や私たち個人、さらには、全ての現象、行為になっていくという(3・5、14・5など)。

グナと呼ばれる物質のあり方は、全部で3種類ある。サットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(暗質)の3つである。さらには、私たちの認識もプラクリティにより生じる。人間の意識や認識、知識を形成する概念も全部で3種類ある。ブッディ、アハンカーラ、マナスの3つである。

 ブッディ(知性)とは、正しい心のはたらきのことを意味する。筆者はこれを、外的に実在するわけではないが、正しい認識の根拠として存在する、プラトンにおけるイデアに近しいものとしてこれを理解した。ブッディはジュニャーナ(知識)やプラジュニャー(智慧、般若)とも言われる。これらはおおむね同義語である。

 アハンカーラ(自我、我慢)とは、己に執着する心のはたらきのことを意味する。ブッディよりアハンカーラが生まれることで、個人というものが形成される。これを取り払うことで、ブラフマンへと帰ることができると言われる。

 マナス(意、思考器官)とは、感覚に由来する心の反応を意味する。つまり、身体との結びつきが強い概念だと言える。ヨーガ学派では、これを取り払って内省を深めることで、真の自己(アートマン)へと至ることを目的としている。

 ここで留意しておく必要があるのは、精神を意味する言葉の全てが、プラクリティより生じる下位の概念というわけではない点である。サーンキヤ学派において、最高の精神的原理(アートマン)を意味する言葉は、プルシャと呼ばれる。プルシャとは、『リグ・ヴェーダ』において語られる、世界を創造した最初の人類だとされており、それが転じて、アートマンを意味するようになったのだと推測される。『ギーター』においては、このプルシャという用語は「高次のプラクリティ」と表現されている。対して、世界を構成する5元素やマナスといった概念は「低次のプラクリティ」だとされており、それらを退けることで、このプルシャ(=アートマン)と一体になることができるという(7・4-5)。付け加えておくべきこととして、プルシャとはあくまでアートマンの意味で使われることが多いだけであって、ブラフマンの意味でも使われることがある点が挙げられる(8・8など)。歴史ある概念は、意味の拡大、変質が多いため、注意して読み進める必要がある。

 

4.ヨーガとは何か

 ここからは、本題であるヨーガという概念について詳しく見ていく。『ギーター』におけるヨーガとは、ものごとを平等に見ること。転じて、ブラフマンと合一すること、またそれらを実践することだとされる。ヨーガを実践する者はヨーギンと呼ばれる。ヨーガにはいくつかの種類があるため、それらを順に説明する。

 一つ目は、知性のヨーガ(ブッディ・ヨーガ)である。これは、最高神の知識に意識を傾け、それに集中し、行為の結果への執着を捨て去ることを意味する。ヴェーダーンタ学派は、これのみを解脱の方法と考えている。知性のヨーガは、サーンキヤ(理論)とも呼ばれる。サーンキヤは、後述する行為のヨーガと対置される。ただし、同名の名を冠するサーンキヤ学派は、行為のヨーガを認める学派である。

 二つ目は、行為のヨーガ(カルマ・ヨーガ)である。これは、行為の結果に執着することなく、己に課された義務の履行に専心することを意味する。『ギーター』における知性のヨーガと行為のヨーガの違いは、本来は異なる学派の意見を一冊の本にまとめているために、内容が似通ってしまい、非常に捉えづらい。筆者なりの推測としては、知識のヨーガが、より直接的に最高神に向かうのに対して、行為のヨーガは義務の履行を通して、つまり間接的な方法を通して神の救済を願う点にあると捉えている。

 ヨーガと関わりの深い概念はほかにもある。一つはバクティ(信愛)である。これは、最高神に対して絶対的に帰依することを意味する。これを行う者は、最高神の慈悲によって解脱することができるとされる。出家せずとも、神を愛する心さえ持ち続けていれば、解脱することができるとして、この概念は民衆に広く伝わった。この概念は、行為のヨーガに類似していると推測される。もう一つは、放擲(サンニヤーサ)である。これは、前述の概念と被るが、最高神に対して全てを捨てさることを意味する。放擲はヨーガであると、本文においても言及されている(6・2)。これら用語の後ろに、ヨーガがそのまま付く場合もある。バクティと放擲は、それほどまでにヨーガの内容を示している用語なのである。

 以上の議論から、『ギーター』におけるヨーガの意味をまとめることができる。ヨーガとはつまり、バクティを捧げることで、また、神に対して全てを放擲することで達する境地のことであり、これを通して精神は、己がアートマンであることに気づき、それが、世界、つまりブラフマンと一体であることを自覚する。ヨーガとは、このようにヒンドゥー教の思想を端的に示す、難解でありながらも奥深い意味を持つ言葉であることが明らかとなる。

 

5.結論

 本論ではこれまで、『バガヴァッド・ギーター』におけるヨーガの意味について、全体を概観しながらこれを探ってきた。結論として、『ギーター』におけるヨーガとは、ブラフマンと一体化すること、つまりウパニシャッドの基本哲学である梵我一如を体現する概念であり、それに至るために、知性や行為、バクティなど様々な形式を取って行われるものであることが明らかとなった。

 本稿では、ヒンドゥー教の教えを理解するために、広く知られている『ギーター』を手がかりとして利用したが、『ギーター』は六派哲学の様々な教えを組み合わせる形で成立したものであり、場合によっては矛盾を含んだ内容となっている節がある。思想の背景である六派哲学を理解することで、より深い視座から『ギーター』を読むことができるようになると思われる。これについては、これからの課題としたい。

 

〈参考文献〉

『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳、岩波文庫、1992年。

上村勝彦『バガヴァッド・ギーターの世界 ヒンドゥー教の救済』、ちくま学芸文庫、  2007年。

早島鏡正他『インド思想史』、東京大学出版会、1982年。

番場一雄『ヨーガの思想 心と体の調和を求めて』、日本放送出版協会、1986年。

 

計4550字(表題部除く)