電子の雑煮

レポートが苦手な大学生です。苦手を克服するためにレポートを公開したいと思います。

『モナドロジー』における自由意志の存在について

2年生の時に作ったレポートなのですが、2年ぐらい放ってしまいました。結構頑張って作った記憶があるので、読んでいただけると泣いて喜びます。

1.序論

 本稿は、『モナドジー』を主なテキストとしながら、ライプニッツへの理解を深めることを最終的な目標として作成されたレポートである。ライプニッツの主張によると、世界は神によって予定調和されており、未来は決定されているという。筆者の疑問は、その決定論の世界において、自由意志を持つものは存在するのか、ということである。そのため本論では、前提となる概念について説明をしながら、最終的にこの問いに向かっていきたいと思う。議論は主に、モナドと予定調和についての簡単な説明をしてから、神の理性とモナドの理性の関係性、真理の存在について言及し、そこから、本稿の問いである自由に関する考察を行う流れで進む。この問いに強く関わらない部分(精子的動物、魂の不死性、充足理由律など)については言及し切れなかったが、『モナドジー』におけるライプニッツの議論の大枠は拾えたと考えている。

 

2.基本的概念の確認

2-1.モナドについて

 本稿の問いへと至るには、いくつかの前提となる説明が必要となるだろう。まずは、モナドや予定調和といった、基本的な概念から確認したい。

 モナドとは、世界を構成する最小単位のものであり、物質的存在と精神的存在の双方を成す。モナドには部分がなく、延長といった物質的な要素を持たないがゆえに、精神的な実体である。世界を構成する物質は、そうしたモナドの複合体としての姿である。現れたり消えたりしているように見えるのは複合体であり、単純な実体は生まれも滅びもしない。そして、複合体に様々な性質や形状がある以上、モナドもまた、様々な性質を各々が別様に保持している事になる。そう考えると、モナド論は「モナドだけがある」という点では一元論となり、「モナドには一つとして同じものがない」という点では多元論となる。

 

2-2.予定調和について

 次に予定調和について説明する。予定調和とは、それらあらゆるモナドが、互いの不可侵性を保ったままに、内的に変化し調和するという神の決定のことを指す。これは決定論の立場を取る概念だが、同時に自由意志の保持も許されている。これについては後述する。ライプニッツの世界観では、あらゆる部分はモナドであり、神そのものではない。神はアリストテレスにおける「不動の動者」のように、原因と結果の関係として干渉してくるのであり、世界はむしろ遍く精神の世界、「汎心論」なのであって、神はそれら「心(モナド)」の設計者かつ動力源の役割を担う。モナドは、神の働きを受け取る一点の力場だと説明することができる。

 

2-3.理性的魂(精神)、必然的真理(普遍の真理)について

 モナドは、表象の判明度によってその役割が異なっている。大半のモナドは物質をなしており、それらはエンテレケイアと呼ばれる。経験を記憶し、表象を知覚するほどとなったモナドは(感覚的)魂となり、理性の一端を表出する。それらは植物や動物の魂になるとされる。そして、さらに高い理性は、反省という作用によって、モナド自身の内面から必然的な原理を認識することによって引き出される。それらの原理は経験に依らずして把握されるのであり、これによって感覚的魂はより鮮明な表象を得て、神の限りなさを、永遠の真理を知る理性的魂、すなわち精神と変化する。つまり、モナド保有する理性は、反省によって神の理性に近いところまで高めることが出来る。これにより、神の理性とモナド(人間)の理性[1]が絶対的に分かたれているのではなく、漸進的な関係性にあることが導き出される。

 また、このモナド論は、物質に対する精神の絶対性を説いたデカルトの説に反対する、心身一致の立場を取る。デカルトの説の不具合は、その優位な精神がどのように物質に干渉するのかを明確に説明できない点にある。一方のライプニッツにおいては、そのような心配はない。先ほども述べたように、各モナドにはそれぞれの理性の幅があり、理性的魂は支配的モナドとして自我、思考、認識を担い、それ以外のエンテレケイアは被支配的なモナドとして、複合体としての肉体やその他の物質の役割を果たす(『モナドジー』§70参照)。つまり、精神の優位性は非物質性に因るものではなく、理性を表出する判明度で分けられているというのが、彼の主張である。

 

2-4.偶然的真理(事実の真理)について

 上記の説明においては、経験に拠らない真理の存在を確認した。ライプニッツはさらに、経験や理由といった世界の内部の性質もまた、事実の真理として存在すると主張する。事実の真理の特徴は二つある。一つは、永遠的、必然的な真理においては、その反対のものは不可能であるが、事実の真理においてはその反対が可能であり、その真理は偶然的なものとなるということだ(同上§33)。もう一つは、そうした偶然的真理の存在は、必然的真理の存在によって導き出されるということである。

 偶然的世界の中には、物事の推移や原因を説明するだけの十分な理由を見て取ることができる(同上§36)。換言すると、ある偶然的な事物の連続を「○○が原因となって××が起きた…」という無限に続く玉突きのように、因果関係に還元して分析するということである。ここにおいて注意すべきことは、この関係性を唯物論として捉えてはならないということである。もし精神、すなわち心の機微までもが物質だとすると、物質は受動的であることしかあり得ないため、結果的にこの考えは理性的存在の自由意志を否定することになってしまう。世界が偶然であることは、必ずしもそういった存在に自由意志を認めるわけではない。よって、自由意志を認めようとするならば、世界には心的な性質が存在するということになる。

 また唯物論には、あらゆる理由を辿っていったとして、存在の理由に当てはまるものは存在するのか、という問いも発生する。答えはもちろんノーであり、存在の始点より以前に存在があることはありえない。よって、そこには存在を超越した存在である神が置かれる。このように、世界(偶然的真理)は、神(必然的真理)の存在があって初めて導き出される(同上§37,§38)。

 

3.自由意志について

 先の説明によって、世界には心的な性質が存在することと、偶然的な世界は必然的な神の存在によって定められていることが明らかになった。ここからは、上記の前提となる情報を用いて、自由意志の存在を認めるライプニッツ独自の主張を確認したい。

 

3-1.偶然的世界における自由意志

 まず論じたいのは、偶然的世界においての自由、すなわち関係においての自由についてである。関係とは、上記の前提のように、世界は心的存在の関わりによってなされるということ、すなわち諸モナドの複合関係のことを指す。

 世界を構成する諸モナドは、理性の幅によって支配関係が定められている。そして、必然的真理を観照する理性的魂は支配的モナドの働きを成すため、被造物でありながら、本来は神のみが有する能動性を分け持つ。ライプニッツ自身の言葉ではこのように説明される。

 

被造物は、完全性をもつかぎり外部に能動作用を及ぼすと言われ、不完全である限り他の被造物から作用を受けると言われる。それで、モナドが判明な表象を持つ限りそれに能動作用を認め、混乱した表象を持つ限りそれに受動作用を認める(同上§49)。

 

そして、このような必然的真理を分け知る精神は、能動的関係として世界と関わり、被造物を操るだけの力を持つ。それは神と類似した役割を果たすため、ある種の「小さな神」と称される。こちらも引用を引く。

 

通常の魂と精神のあいだには多くの差異があって、その一部はすでに述べたが、なお次のような差異がある。魂一般は、被造物の宇宙の生きた鏡ないしその似姿であるが、精神はそのうえに、神そのもの、自然の作者そのものの似姿であり、宇宙の体系を知ることができ、建築術的な雛型によってある点まで宇宙を模倣することができる。こうしてそれぞれの精神は、自分の領域における小さな神のようなものである(同上§83)。

 

以上のことから、精神=小さな神々は、世界の中において独自の在り方をなし、諸モナドを支配的関係に従える場を占めること、すなわち、世界の関係において優位に立つ、自由な存在であることが証明される。

 

3-2.必然的世界における自由意志

 次に論じたいことは、必然的世界においての自由意志の可能性である。一般的に考えると、決定論においては予定説やスピノザ[2]の汎神論のように、人間の自由意志は存在しないとされる。しかし、『モナドジー』を見ると、それらの説とは異なる結論を見出すことができる。

 神による予定調和は、神がモナドに対して唯一入力した(というより、創造と同時に与えられた)、ある種の設計図によってなされる。ライプニッツはそれを「魂の襞」と呼び、最善の結果を成す世界全体の縮図を内包していると主張する(同上§61)。つまりそれは、神の意志は創造においてのみ関わることを意味し、それ以降はモナド自身の力動がなすということ、また、これまで確認してきた必然的真理が、プラトンイデア界のように別様の世界に存在するのではなく、諸モナドが内在的に保有しているということを意味する。モナドは単独の状態からして、すでに宇宙の全貌をその内に潜ませているのであり、明晰な表象により、その一端を我々に開示する。つまり、モナドは一見して機械的に動いているように見えるが、その実においては、常に自発的に最善の結果、すなわち予定調和をなしているということになる。これにより、モナドの一形態たる理性的精神は、必然的真理を内在的に有しており、それ単体において自発的に働きをなすことが証明される。

 

4.可能世界の検討と最善世界の選択

 ここからは、上記の議論を用いて可能世界と最善世界という概念を説明し、決定論的世界と自由意志がどのように整合するのかを考察したい。

 ライプニッツは、スピノザにおける神による世界の必然性、唯一性を否定し、神は可能世界を検討したうえで、最善の世界を選択するという立場を取る。これは神に限らず、人間などの理性的存在も含まれると思われる。主体的、自発的な自己が、神と同様に考慮と選択を行うのである。これは、そういった存在が可能世界の検討に参加しているということであり、そこから各々の理性の限度に応じた結果を選んでいることになる(同上§57)。ここにおいて、あらゆる選択肢を検討することは、世界が偶然であることを意味し、一方で、最善の世界が選ばれるということは、各モナドが自身の予定調和を発揮するということを意味する。つまりこれは、精神を含めた各モナドがいかなる世界を選択しようとも、それは神の最大の一端を表現するのであり、必然的にそれは最善の世界となるほかないということである(同上§87)。これは、誤解を恐れずに言えば、神が定めているのは世界の最善性のみであり、その内容は精神を含めた各モナドが選び取っている、ということができるだろう。

 

5.結論

 本稿ではこれまで、ライプニッツの世界観における自由意志の存在について、前提となる概念を説明する形で議論を進めてきた。議論を概説すると、最初はモナドについて論じ、それが世界を構成する心的な実体であることを説明した。次に、モナドは表象の判明度によって、精神や魂、物質になることを確認した。さらにその次には、精神が必然的真理を知ることによって引き出されること、また、偶然的真理は必然的真理の存在によって導き出されることを説明した。それからは、議論を自由意志の存在へと進め、諸モナドを従える理性的存在は能動的であり関係的自由を有すること、またモナドは単独にして既に必然的真理を知る力動であり、精神はその一端を表出するので、自発的な単独的自由を有することの二つを説明した。そして最後には、可能世界の検討と最善世界の選択について論じた。ここでは、あらゆる可能世界は世界の偶然性によって検討されるが、その中のどれが選ばれるかは精神を含めた各モナドの予定調和によって果たされるのであり、どの世界を選択しようとも世界は最善のものになるほかない、ということを考察した。結論として、決定論の世界において自由意志を持つ存在は、理性的存在であるということ、また、その自由な意志によりなされる世界は最善となることが証明された。

 

〈参考文献〉

フランクリン・パーキンズ『知の教科書 ライプニッツ』梅原宏司・川口典成訳、講談社選書メチエ、2015年。

ライプニッツモナドジー』谷川多佳子・岡部秀男訳、岩波文庫、2019年。

小林道夫編『哲学の歴史 5: デカルト革命』、中央公論新社、2007年。

 

計5305字(表題部除く)

 

[1] 本稿においては、たびたび理性的魂を有する存在を人間だと言及してしまっているが、ライプニッツにおいては本来、人間という種に限らず、高い理性を有している存在は全て人格的かつ能動的な存在だとされる。

[2] スピノザは、世界そのものが直接的に神であるという汎神論の立場や、決定論、自由意志の否定という立場を取る。ライプニッツスピノザは、言葉の上では非常に立場の異なった印象を与えるが、本質的には主張が似ているようにも思える。この点については、また別の機会を設けて考えてみたいと思う。