シモーヌ・ヴェイユにおける「女性的なもの」をめぐって ―力と愛の領域における女性の表象を捉える

〈序論〉

 本稿は、フランスの思想家、シモーヌ・ヴェイユの思想における「女性的なもの」を探るために作成されたレポートである。したがって本論では、彼女が取り上げる女性の表象を追い、そこにどんな関連性があるのかを検討する。流れとしてはまず、ヴェイユの思想における二つの側面、力の思想と愛の思想について説明し、一般的には矛盾するとされる二つの領域が、彼女の思想においては両者とも必要となることを明らかにする。次に、力の領域、愛の領域における女性・男性の表象の具体例をそれぞれ取り上げる。また、愛の領域におけるヴェイユの性の取り上げ方が、異性愛の表現に偏っていることを指摘する。結論としては、ヴェイユが取り上げる女性の表象は、力の領域においては無力かもしれないが、それゆえに愛の領域へと至ることができるという、彼女の思想の重要な部分を占めていることを説明する。

 今回のレポートでは、ヴェイユの信仰や宗教の領域を代表する語を一つに定めることができなかったため、便宜的に「愛」という語を用いた。愛という言葉は、非常に広い意味を持つ言葉であり、注意が必要である。ここにおいての愛とは、神を愛そうとする愛、もしくは神による我々への普遍的な愛の双方のことを指す。この愛は、何かを望むことをしない。神による恩寵は、報われなくとも愛し続けることができる者にのみ与えられる。一般的に用いられる愛とは、意味が異なることに留意してもらいたい(第3章で触れる友愛や同性愛については、この限りではない)。

 

〈本論〉

1.二つの領域、力と愛について

 前述したように、ヴェイユの思想には主に二つの側面が見られる。一方は政治や社会の領域、力の思想であり、もう一方は、神や宗教の領域、愛の思想である。

 ヴェイユによると、力はもっぱら悪にしかならない。力の犠牲となった者も、自分が力を持った途端に力を振るい、悪を繰り返す。力は人々を容赦なく傷つけ、束ね合わせ、従わせる。集団として束ねられた大衆の信念は、飼い主たる人々がコントロールできないほどの「巨獣」[1]となる。人々は次第に、自分で考えることをやめ、自らの所属する集団の意見に追従するだけとなる。自らが正義たらんとする集団も、簡単に悪になりうるとすれば、本来の正義(善)は、どこに依拠すればよいのか。

 ここにヴェイユの思想のもう一つの側面、比較を絶する形而上の善、すなわち神に対する霊的な領域に足を踏み入れる必要が出てくる。彼女自身の言葉ではこう語る。

超越的なもの、超本性的なもの、真に霊的なものの領域に入りこんではじめて、人間は社会的なものを凌駕できる。それまでは事実上、どうあがいても社会的なものは人間にとって超越的でありつづける。(『重力と恩寵』36-6)

 神を愛すること、それは時に、現実を放棄した諦観の念として受け取られることもあるが、ヴェイユの神に対する姿勢は、あくまで社会の中で求められるものである。彼女にとって、社会的な活動は、自身と神を繋ぐ仲介としての作用を持つ。労働や献身を介して、恩寵を受け取るのだ。この行為は、社会は改善すべき対象であるが、救いを求めるべき対象ではないことを意味する。社会に救いを求める者は巨獣に飲み込まれる。救いは神に求めなくてはならない。

 彼女の著作のうち、最も有名な『重力と恩寵』は、力と愛の二つを象徴するタイトルとなっている。重力とは、物理法則に従わせるかのように機械的に作用する、この世に生きている限り逃れることのできない苦しみを指す。力を持つ者と持たない者が、互いの生存をかけて傷つけあうことしかできない世界には、重力しか存在しない。一方で恩寵は、重力によって苦しめられた者が賜りうる、神による絶対的な愛を指す。『重力と恩寵』はヴェイユ本人が付けたものではなく、友人のティボンが、彼女から託されたノートを編纂し付けたものである。彼女の思想に見られる二つの側面を、おそらくティボンも感じていたのだろうと推測される。

 以降の項では、この力と愛のそれぞれの領域における性の表象について、分析していきたいと思う。

 

2.力の境域における女性・男性の表象

 ヴェイユは、普遍の真理は時代と場所を問わず、また宗教や民族も問わず、あらゆる場所から見出されると信じていた。そのため彼女は、文学や演劇から始まり、世界各地の民話や神話、童話などの民間伝承に至るまで、さまざまな物語を持ち出し、その登場人物や道具を隠喩として解釈することで、それを神と人間の関係に当てはめようと試みた。

 この項では、ヴェイユが解釈したテキストに見られる、力の領域における男性・女性の表象について説明する。彼女が残した著作のうち『重力と恩寵』と、古代ギリシャに関する断章をまとめた『ギリシアの泉』から、『イリアス』、『エレクトラ』、『アンティゴネー』、およびジャンヌ・ダルクへの解釈を取り上げたい。

 

・『イリアス』における男性の表象

 『イリアス』において、男たちは殺し合う。どちらかが滅びるまで。戦から帰ったヘクトールに対して、妻は風呂を勧めるが、彼はそれを断る。その後、彼は再び戦場に出ようとするが、勝ち目のない戦いに行かないでほしいと妻に懇願される。ヘクトールはこう返す。

さあ、そなたは家に帰り、機を織るなり糸を紡ぐなり、自分の仕事に精を出し、女中たちには各自仕事にかかるように言い付けるのだ。戦さは男の仕事、このイリオスに生を享けた男たち皆に、とりわけてわたしにそれは任せておけばよい。(『イリアス』6. 490-3)

 風呂も機織りも、本来なら生活に欠かせないものだ。しかし、争いの場においては顧みられることがない。生きるか死ぬかの瀬戸際なのだから。力は、人の魂を生きながらにして死んだモノへと変えてしまう。『ギリシアの泉』に収録されている『「イリアス」、あるいは力の詩編』というヴェイユの論文においては、上記の場面も含め、『イリアス』のなかの凄惨な場面を分析し、人々が感情や魂の躍動を失っていくさまを克明に描いている。彼らの惨たらしいまでの争いは、魂を押しつぶし、生命を物象化してしまう力の恐ろしさを今に伝えている。

 

・『エレクトラ』における女性の表象

 男たちが殺し合う一方で、女たちはその力に翻弄される無力な存在であった。しかし一方で、男たちが戦争に出たことで、一部の女は、その隙に街に残った男と姦通し、力をわが物にした。ミュケーナイの王族の元に生まれたエレクトラは、そうした計略によって父を母に殺されるという、力の奔流に飲まれた一人であった。彼女は王位を簒奪した母とその愛人から、極めて凄惨な扱いを受けた。しかし彼女は、無力でありながらもそうした迫害を必死で耐え抜き、正しくあろうとし続けた。

 最終的にエレクトラは、一縷の望みであった弟オレステスとの運命的な再会をし、母たちへの復讐を果たす[2]。この結末は、復讐を果たすという点では力の表象であるかもしれない。しかし、ヴェイユの解釈においては、このオレステスはキリスト、つまり神の比喩だとされており、隠された神秘と人間の魂の関係として扱われている。この点については後述する。

 

・『アンティゴネー』における女性の表象

 エレクトラが無力でありながらも、力による馴致を耐え抜く勇気を見せたように、『アンティゴネー』もまた、自分の信念を貫いた女性の物語である。テーベの王族の元に生まれたアンティゴネーは、兄弟たちの王位をめぐる争いに翻弄される。兄弟は互いに刺し違えて死に、叔父が代わって王になる。叔父は、国家に反逆した罪として、一方の兄弟の遺体を野に晒す。アンティゴネーは兄弟への愛ゆえに、この屈辱的な扱いを受け入れられない。彼女は遺体に触れてはならないという禁令を破り、兄弟を埋葬しようとする。結局彼女は捕えられ、生き埋めの刑にされる。アンティゴネーは最後まで自分のしたことを正しいと信じていた。「私は憎しみを分かつためではなく、愛を分かつために生まれたのです」(『アンティゴネー』523)と言い切った彼女の愛は、ある意味愚かでさえあった。

 彼女の表象は、無慈悲な力の翻弄を前にして、それとどう向き合うかという悲劇の女性の表象に留まらない。彼女の身に降り注ぐ不幸は、その分だけ神との隔たりを示す。愛を信じたまま死んだ彼女は、後述する神への愛の体現者でもあった。二つの領域は、常に重なっているのである。

 

ジャンヌ・ダルクという女性の表象

 人間が力に飲み込まれるのは、生きている間に留まらない。巨獣は、死者さえも食らい尽くす。一度は魔女として断罪された果てに、再びフランスの国民的英雄となったジャンヌ・ダルク。彼女の表象には、複数の「読み」[3]が重なっている。

 彼女の表象は、反ユダヤ主義の機運が高まったときには純潔のガリア人として、カトリックにおいては殉教者として、王党派にとっては王を戴冠させた英雄として、民衆にとっては平民出身の英雄、また貧者の慰め手としてなど、あまりに多くの人々によって、都合よく解釈されてきた。もちろん現代では、フェミニズムの象徴にもなっている。前述したように、ヴェイユにとって社会的な集団は巨獣である。ジャンヌは、それらの巨獣を束ねる接点とされているのだ。巨獣の数と大きさに埋もれて、彼女の本来の行動や信条は、もはや読みよることができそうにない。

 ヴェイユはジャンヌのことを(これは彼女の「読み」ではあるが)、武力に依らぬ抵抗の象徴として捉えていた(『重力と恩寵』29-4)。彼女にとってのジャンヌとは、力に翻弄されながらも、それを拒む、まるで嵐の目のような静謐さのなかで祈り続ける存在として描かれていたのかもしれない。

 

3.愛の領域における女性の表象

 では、愛の領域においては、性はどのように表象されていたのだろうか。ヴェイユはしばしば、男女が苦難の果てに結ばれる物語を取り出し、それが「神と人間の懸隔」[4]を示すものだという解釈を残している。前述したように、この地上に善は存在しない。神と人間の間には、無限にも等しい隔たりがある。しかし、地上に誇るべき善が存在しないとして、それでも神を愛し続けることができるのならば、その愛は無限の懸隔を超えうるものとなる。そして、神はつねに私たちを愛しているのだから、この愛は双方的なものである。『ノロウェイの黒牛』[5]は、そうした神と人間の懸隔の比喩を秘めているとヴェイユが解釈した物語の一つである。物語の要約を以下に示す。

 ある国の美しい王女が、ひょんなことから牡牛と結婚し旅に出る。牡牛は夜の間だけ人間の姿に戻るが、暗闇の中でその姿を見ることはできない。王女は人間に戻った姿を一目見たいと思い、牡牛が寝ている隙にその毛皮を燃やしてしまう。王女は一瞬だけ、美しい青年の相貌を捉えるが、その人は彼女の目の前で消えてしまう。彼女は彼を探すことを決意する。長旅の末、彼女は彼がノロウェイの王子であることを突き止め、ノロウェイ公の城に女中として入る。彼女は王子を探すためにあらゆる装飾品も身分を失っていたのだ。一方で王子は、意に沿わぬ婚約者によって婚姻の日まで眠らされており、王女が呼びかけても起きることはなかった。王女は絶望しかけるが、それでも彼に呼びかけ続ける。最後の最後で王子は目覚め、王女のことを思い出す。二人は婚約者に化けていたトロルを追い払い、晴れて結ばれる。

 この物語において王女は神の表象であり、牡牛は人間の表象である。王女(神)は美[6]という誘惑によって牡牛を導き、彼を肉のまどろみから目覚めさせる。一方で牡牛は、獣性が混ざった人間であり、神の企みによって肉という隔てなしに神と出会いかける。肉なしで神と出会うことは死を意味する。肉体は死を恐れ、そこから逃げ出す。

 王子が消えた後、王女は自らの持ち物を犠牲にしてまで彼を探し、卑しい身分に身をやつした末に彼と再会する。これは、神が外観の輝きを失った姿、つまり神という普遍の真理(善)が、それがもたらす恩恵や評判を失った姿で現れるということを意味する[7]。神は人間が善の内実を求められるかどうかを試すのだ。ここで人間が愛を捨てずに善を信じ切れるのならば、善は本当の姿を我々に見せる。物質を凌駕する愛は、超越的な結合を引き起こすのだ。

 ヴェイユはこのおとぎ話以外にも、いくつかの物語や神話において、男女が結ばれる話を神と人間の懸隔として例示している。その解釈において、神や人間はどちらの性別に対しても割り当てられており、それほど性との間に関連性があるようには見えない。ヴェイユにとって、神に「父」という形而下の性質は関わりがないようである。

 

・物語の解釈における偏りについて

 筆者が気になるのはむしろ、ヴェイユによる物語の解釈の題材が、自分の知る限り、ほぼ異性間の関係に基づくものだということである。ヴェイユは情欲に基づく愛を堕落したものとし、プラトニックな愛を正当だと考えていた。もちろん、民間伝承は昔から語り継がれてきたものであり、同性愛などを正面から描きにくかったという節はあるだろう。しかし、精神的な愛に性別は全く関係ないのだから、彼女が同性愛に基づく愛の表象を全く取り上げなかったことは、多少不思議なことに思われる。また、ヴェイユは同性愛に対して、それを極端に悪いものだとする記述を『重力と恩寵』に残している。以下は引用である。

 ヨーロッパ以外の諸文明。瑕疵の存在じたい、それらが依拠する宗教の不完全さの証拠であるとされる。ところで、ヨーロッパにおける過去二十世紀の歴史を振り返ると、他の文明に負けず劣らずの瑕疵が容易に見つかる。アメリカ大陸を虐殺により、アフリカ大陸を奴隷制により荒廃させ、南仏を度重なる殺戮によって蹂躙した。これらはギリシアの同性愛の風習、ギリシアやインドの乱痴気騒ぎの祭儀に文句なく匹敵する。(『重力と恩寵』30-1)                                                                                        

 この引用はヨーロッパ文明が陥る自己正当化を指摘したものであり、そのなかで同性愛は、虐殺に匹敵する瑕疵だと説明されている。彼女はなぜ、同性愛という言葉をこのように扱ったのだろうか。

 他の言及に目を向けてみると、彼女は同性愛のことを「不可能な愛」と呼んでおり、中世の宮廷風恋愛(ミンネ)と重ねている(同上p.395)。このミンネとは、騎士と貴婦人が結ぶ、精神的な愛の文化のことである。ヴェイユが同性愛とミンネのどちらのことも不可能な愛と呼んでいたならば、この不可能とは、単に否定的な意味ではなく、現実の位相において不可能な愛、すなわち精神的な領域で結びつく愛を示しているように思われる。そう考えると、彼女によるいくつかの同性愛に対する不当な言及は、いずれも「情欲的な」という意味が暗に込められていたと考える方が自然である。読者に勘違いをされることがないように、より詳しい補注を加えた方がよいと思われる[8]

 

〈結論〉

 本論ではこれまで、ヴェイユの思想における女性の表象について分析してきた。結論としては、ヴェイユの取り上げる女性たちは、現実的には無力だが、その不幸の隔たりを持ってして愛の領域へと至る存在だということが明らかとなった。

 ヴェイユにとって、性は本質的な問題ではなかったかもしれない。彼女にとって重要だったのは、あくまでも力に支配されるか、それとも神を愛せるかの二つであったことは、まず間違いない。しかし彼女の思想は、多くの勇気ある女性の表象によって支えられており、決してそれなしでは成立しえないものである。また、彼女の愛に対する考えは、エレーヌ・シクスーの言う〈女性性〉に似た部分を思わせる。そして『イリアス』で見たように、力はかつて男性のものだった。これからの社会を考えるにあたって、私たちはこれまでの〈男性〉的な力ではなく、〈女性〉的な愛を持って、善の根拠を捉える必要があるだろう。

 

〈参考文献〉

プラトン 『国家』 上下巻、藤沢令夫訳、岩波文庫、2008年。

ホメロスイリアス』下巻、松平千秋訳、岩波文庫、1992年。

ソフォクレスアンティゴネー』中務哲郎訳、岩波文庫、2014年。

シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』冨原眞弓訳、岩波文庫、2017年。

―『ギリシアの泉』冨原眞弓訳、みすず書房、1998年。

・冨原眞弓『ヴェーユ』、清水書院、2015年。

栗田隆子シモーヌ・ヴェイユにおける『社会的なるもの』と『隣人愛』をモチーフに女性の『声』について考える」、『臨床哲学』、19巻、2018年、pp.128-145。

 

計7805字

 

[1] 「巨獣」とはプラトンの『国家』第6巻にて語られる、大衆が体現する社会のことを指す。自身も構成要素の一つである社会から被る影響は無自覚に入り込み、意識にのぼることがない。社会を疑おうにも自己欺瞞がはたらき、疑念はすぐに隠蔽されてしまう。この無意識の共犯関係が、巨獣への抵抗を難しくさせる。これについて、栗田(2018)は、現代のフェミニズムもまた巨獣になりうると指摘している。その論文では、フェミニズムに必要なのはただ団結することではなく、一人一人の声に耳を傾けること、「注意力(この語はヴェイユの思想の核を成す重要な用語である)」の必要性を語っている。こうしたアプローチについても、別の場を設けて考えてみたい。

[2] オレステスは当初、母たちを誤魔化すために自らの死を偽装する。彼が送った嘘の骨壺を受け取ったエレクトラは、父の墓前で絶望し泣き出す。しかしそこにたまたまオレステスが訪れ、言葉を交わしているうちに二人は再会したことに気づく。

[3] ヴェイユが独特の含意を込めたこの「読み」は、人それぞれの解釈や価値判断のことであり、他者を理解することの難しさや、自分の信念の正しさへの懐疑を示す際に用いられる。読みは正しいこともあれば、誤ることもある。正しく読みとるには、「注意力」が必要である。そしてまた、読みは強い動機を与える。読みを分かり合うことは難しいが、一方で強い他者の主張に服従させられることもある。誤った読みが広がれば、それは大きな悪を生む。ジャンヌ・ダルクは、この読みの多さによって正しく読みとることが難しくなってしまっていると言えよう。

[4] エレクトラオレステスの再会もまた、そうした神と人間の関係としてヴェイユは捉えている。「死せるオレステスを悼んで泣くエレクトラ。われわれが神は実存しないと考え、なおかつ神を愛するなら、神はその実存を表すだろう」(『重力と恩寵』4-17)

[5]ノロウェイの黒牛』は、『太陽の東 月の西』や『鷹フィニストの羽根』など、類型が多く見られる話である。これらの原型には、『黄金の驢馬』に出てくる「クピードーとプシューケー」の神話が関係していると推測される。作者のアプレイウスは哲学者としても活躍した人物であり、彼自身の哲学的意図とヴェイユの解釈の相違点や関連性を探ることも、ヴェイユの思想の可能性を広げうる一つの方法になると思われる。

[6] ヴェイユは美を、現世における神の臨在だと捉えていた。彼女によると美とは、それがそれのままであり続けることを私が望むもの、「なぜ」という念を忘れるほどの印象を与えるもの、必然性と完全性を有するものを指す。また、美は神が用意した人間への罠であり、人間を誘惑して捕える(神への従順)と解する。例として、ヴェイユはハデスがペルセポネを妻にする神話を解釈し、彼女を誘惑する際に用いた水仙と、デメテルの元に返す際に渡した柘榴の実に、美の性質を見出している(『重力と恩寵』p.341)。

[7]この善の外面ではなく内実を求める義人の話は、プラトンの『国家』第2巻に詳しい。

[8] 別の考え方としては、情欲がないならば、それは友情、もしくは友愛に属するものだとヴェイユが捉えていたという道がある。『重力と恩寵』第14章「愛」において、友情という言葉は、愛に匹敵するものとして用いられている。ヴェイユが同性愛という語を用いた時点で、それは性愛を意味するものだったということは、想像に難くない。