電子の雑煮

レポートが苦手な大学生です。苦手を克服するためにレポートを公開したいと思います。

これからのシモーヌ・ヴェイユとフェミニズムのために

1. 序論

 筆者は、前回シモーヌ・ヴェイユを題材としてレポートを書いた(以下参照)。

 そこでは、神へと至る信仰の愛を「女性的なもの」として解釈した。しかし、信仰はあまりに深淵である。この現代において、全ての人が至らなければならない道ではない。そもそも、レポートで扱ったような女性の表象では、「真理としての女」から逃れられていないと自分でも思う。ゆえに筆者は、別の形でヴェイユを理解し、それを人に伝える必要がある。

 また、ヴェイユフェミニズムの間に何の関係があるのかとも言われることもあるだろう。彼女は女性であったが、フェミニズムの提唱者であるボーヴォワールと問題意識を共有することはできなかった。ゆえに、本論では、ヴェイユの思想がフェミニズムに呼応しうるのかどうかを検討する。流れとしてはまず、ヴェイユボーヴォワールが交わした会話について、バトラーの問題意識と絡めながら、その意図を探る。その次には、現代の人々にも有効と言えるヴェイユの思想の方向性について考える。最終的に、ヴェイユの思想はフェミニズムと関わりうることを主張する。

 

2-1. 口論—ヴェイユボーヴォワール

 前述したように、ヴェイユは生前、ボーヴォワールソルボンヌ大学で出会ったことがある。このことはボーヴォワールの自伝『娘時代』に記されている。二人はその際、飢餓の問題について話し合った。ボーヴォワールが精神の解放、権利の獲得について説いたのに対し、ヴェイユはそれを一瞥して、「あなたは一度も飢えたことがないってことがよく分かる」と返したという。このことは、何を意味すると言えるだろうか。筆者としては、この発言は、単に不幸の相対性を言っているのではないと考える。そもそも、人は飢えなくなったところで、そこには無限の不満が続く。不幸や不満は人によってさまざまなのだから、本当の問題は、それらを自身の抱える一様の問題意識に区切ってしまうところにある。自分の権利を認められたいがために、飢えた隣人の苦しみを忘れる。その感性こそ、ヴェイユが嫌ったものだと読み取られよう。

 

2-2. 捨象―バトラーとヴェイユ

 上記と似た指摘は、フェミニズムの新たな次元を切り開いた哲学者、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』にも見られる。バトラーは、本書の第1章第1節において、「代表/表象representation」の暴力性について論じている。「代表/表象」という語は、女性という枠組みの代表者を選び出し、その存在を可視化し、正当化するプロセスを担うものであるが、一方で、言語を規範化する力によって、女性という主体の範囲を規定し、統一的な女性像を念頭に置かせるものにもなりうる。これはつまり、その女性という枠組みから外れている人たちを排除することを意味する。バトラーは、そうした姿勢はフェミニズム帝国主義(男性中心主義)と同じものにしかねないと指摘し、女性というアイデンティティ(同一性)を先に規定することは、フェミニズムにふさわしくないと述べる。本人の言葉では以下のように述べられる。

 

フェミニズムの主体という基盤があると断言してしまうことで、権力の磁場がうまく目隠しされてしまい、そしてその目隠しされた権力の磁場のなかでしか主体形成がおこなわれないなら、フェミニズムの主体というアイデンティティなど、けっしてフェミニズムの政治の基盤としてはならない。おそらく逆説的なことだが、「女」という主体がどこにも前提とされない場合にのみ、「表象/代表」はフェミニズムにとって有意義なものとなるだろう。(『ジェンダー・トラブル』p.26)

 

 そのため、フェミニズムには、これまで封じられてきた声を上げるのと同時に、苦しみの内容は人それぞれ異なるという事実を理解することが求められる。そのためには、お互いの声を聞くこと、傾聴する精神を養うことが必要になる。筆者はここで、ヴェイユの重要な用語の一つである「注意力」という語を説明したい。

 注意力とは、対象をあるがままに受け止めようとする努力のことである(冨原 1992, p.83)。物事に対する予見を持たぬようにすることは、日々の暮らしの中ではほぼありえず、これは訓練を必要とする難しいもの、稀なものであると言わざるを得ない。しかしこの、結果を求めることのない注意を持つことができるのであれば、それは現象の奥にある、幾重にも折り重なった「読み」[1]を受け取る力を我々に与えてくれる。この注意力を、「真空」に向けるならば、それは全き神への愛となり、それを他者に向けるならば、それは正しい意味での隣人愛となる。前者を誰もが求めるわけではなくとも、この注意力という言葉の意義は、私たちに大事なものを教えてくれると言えよう。ヴェイユ自身はこう語る。

 

全き隣人愛(他者への注意力)とは、あなたを苦しめているものはなにか、と問うことに尽きる。不幸なひとが集合体を構成する一単位としてではなく、《不幸なひと》のレッテルを貼られた社会的範嘩に属する一員としてでもなく、ある日、不幸の打撃をうけて模倣をゆるさぬ不幸の格印を押されてはいるが、われわれとまったく変わらない人間として実存することを知ることだ。(「学業の善用をめぐる省察」『神を待ち望む』p.103)(括弧内は筆者)

 

 3.接続―これからのヴェイユフェミニズム

 この現代において、誰しもに形而上学的次元、宗教的な次元が必要だとは筆者も考えない。しかし、「巨獣」[2]に惑わされるほかない人々は大勢いる。それは不幸である。その不幸と向き合うために、ヴェイユの思想はきっと役に立つ(そもそも注意力は、有用と無用の観念によって振り分けられる人間の感性に抗う力を育てる)。そのために筆者は、ヴェイユの問題意識と、現代のフェミニズムの問題意識を繋げて捉えていきたい。以下にはその指針を示す。

 まず必要なのは、巨獣(集団の「正しさ」)と神(真に正しい認識)を見分けられるようにすること、労働者(祈りを持たない人たち)自身の文化を作ることである。長い歴史を持つ文化や教養を、労働者自身が引き継ぎ、組み換え、自らの手になじませる工夫をもたらす。これは生前のヴェイユがなそうとしていたことである[3]

 前回のレポートにおいて筆者は、ヴェイユの民間伝承の解釈を追うレポートを作成した。ヴェイユが民間伝承に注目した理由は、歴史による選定を耐え抜いた物語の中には、神と人間の関係などの、普遍的な真理が見出されると信じていたためである。彼女にとって文化とは、そういった過去との接続という「根」[4]を介して、人の心の糧となるものであった。文化や歴史の継承が欠かせないのは、彼女のそうした意識に由来している。この「根」こそが、巨獣の暴走に耐え得る内省を、激情に依らない正しい認識を育てる。

 次に必要なことは、人々の注意力を培うこと、配慮の必要性を社会的に承認することである。一口に配慮と言っても、そこにはさまざまなものが当てはまるが、筆者としては目下のところ、これまで多くが女性によって担われてきた、家事、育児、教育、介護などのケアの労働を想定しており、それらの立場を再考する必要があると考える。ただし、注意力の養成についてはむしろ、安易に行動をせずに「待つ」ことを我々に求める。「注意attention」という語は、「待機、待望」を意味するラテン語「attendare」に由来しており、前述したように、苦しみを言葉にする力を持たない人たちがそれを言葉にできるまで、じっと待ち続ける力を我々に与える。その待つ時間を、個人の努力に全て求めるのではなく、社会的に認めることが必要だと筆者は考える。現在、ケアの労働は、社会のどこにおいても非常にひっ迫しており、ケアを受ける側の声も、ケアの実践者側の声も、十分に聞くことができていないのが実情である[5]。公的なサービスによって運営されているケアの労働は多いが、精神的余裕のない彼らだけに負担を押し付けることは明らかにおかしい。ゆえに、今の社会に求められることは、ケアの労働の必要性を知り、彼らの社会的地位を上昇させること、人員不足などの諸問題を解決することにあると言える。

 

4.結論

 本稿ではこれまで、前期に書いたヴェイユのレポートを見直しながら、それをより現代的なフェミニズムの問題意識に合わせて、ヴェイユの思想がフェミニズムに呼応する可能性を探ってきた。結論として、ヴェイユの思想は、苦しむ隣人の声を引き出し、それを受け入れる力を養う、注意力を中心に据えたフェミニズムの可能性を持っていることが明らかとなった。

 本論においては、やや強引にケアの倫理についての話題を加えながら議論を進めたが、これに対しては、まだ筆者自身の理解が足りていない節がある。そのため、これについても今一度勉強し直しながら、さまざまなフェミニズムの思潮への理解を深めていきたいと思う。

 

〈参考文献〉

シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』冨原眞弓訳、岩波文庫、2017年。

—『根をもつこと』山崎庸一郎訳、春秋社、2009年。

—『神を待ち望む』渡辺秀訳、春秋社、2009年。

栗田隆子シモーヌ・ヴェイユにおける『社会的なるもの』と『隣人愛』をモチーフに女性の『声』について考える」、『臨床哲学』、19巻、2018年、pp.128-145。

・冨原眞弓『ヴェーユ』、清水書院、1992年。

ジュディス・バトラージェンダー・トラブル』竹村和子訳、青土社、2018年。

ファビエンヌ・ブルジューヌ『ケアの倫理—ネオリベラリズムへの反論』原山哲・山下りえ子訳、白水社、2014年。

 

計4060字(表題部除く)

 

[1] 「読み」については、前回のレポートの注、もしくは『重力と恩寵』29章「読み」を参照。

[2]「巨獣」とは、自分で自分をコントロールすることのできない、集団の感情を比喩したものを指す。筆者としては、バトラーが批判した、女性というアイデンティティが先行するフェミニズムもまた、巨獣に飲み込まれうると推測する。言葉の説明自体については、前回のレポートも参照。

[3] 彼女は女工として働いていたころに、同僚に文字の読み書きを教えるために、ギリシャ悲劇の『アンティゴネー』と『エレクトラ』を翻案し、それをテキストとした。これは、日々搾取を受け、苦しい立場にある労働者であれば、たとえ文字を知らずとも、悲劇により共感することができると彼女が考えていたためである(冨原 1992, pp.124-127)。

[4] 「根」はヴェイユが最晩年の1943年に書いた、フランス憲法草案のための覚え書き、『根をもつこと』における重要な用語である。本書においてヴェイユは、根を失い、人間としてのあらゆる存在意義が奪われることの悲惨さと、根による紐帯を介して人々を繋げる意義、つまり国民が依拠すべき国家の「根」である憲法や歴史に必要な姿勢を述べる。

[5] 具体的には、介護や保育における事故(個人の場合、介護殺人など)や、教員の過労死、介護職員の低賃金、人員不足の問題などが挙げられるだろう。