電子の雑煮

レポートが苦手な大学生です。苦手を克服するためにレポートを公開したいと思います。

『ゴルギアス』における善と快の関係について

1.序論

 本稿は、『ゴルギアス』を主なテキストとしながら、プラトンへの理解を深めることを最終的な目標として作成されたレポートである。本稿の目的は、『ゴルギアス』における善と快の関係性を明らかにし、どのような人間が最もよい存在なのかを考察することである。したがって本論においては、作品内におけるソクラテスの主張について順を追って説明し、それらを対比することで善と快の関係性を明らかにしてから、その対比を元に、最もよい人間像の具体的な内容を説明していく流れを取る。

 

2.本論

 まずは、ポロスとの対話の中におけるソクラテスの主張を確認する。ここにおけるソクラテスの主張は、不正を行なうこと、すなわち善にまつわる事柄は、快楽などの他のあらゆる価値に対して優越するということであり、よくあるかどうかを吟味することだけが重要であるとされる[1]

 また、同じくポロスとの対話において、ソクラテスは不正を行なう者の悪さの度合いについて述べている。その話によると、最大の悪とは不正かつ苦痛であることではなく、不正な仕方で快楽を得ることである(同上479D~E)。むしろ、不正をしていた人物の罪が明らかになることによって、裁判で裁かれ苦痛を味わうことは、むしろその最大の悪からは一段階解放されており、より悪くないという。

 そして、カリクレスとの対話に移ると、ソクラテスの主張はさらに判明になっていく。ポロスとの対話においては、善はあらゆる価値に対して優越するということであったが、カリクレスとの対話においては、善が他の価値をどのように定めるか、という話題が中心となる。カリクレスは、快楽が何にもまして優先されるということを終始主張するので、ソクラテスは、快楽の中にもよいものと悪いものがあることや、善と快の両方の益を持つための方法を説明するなどして、カリクレスの主張に沿わせた反論をする[2]。ここから分かることは、善のためになる快楽も存在するということである。ただ善ければそれで全てよしというわけではなく、善と快の両方を備えた状態こそが最もよい状態なのであり、ポロスとの対話で示していたような「苦痛を被る善人」はその一つ下になるというわけである。

 以上の点を整理して考えると、最もよい存在としては、善と快の両方を備えたもの、すなわち「快い善人」が当てはまるのであり、二番目には善くあるが苦痛を被っているもの、「苦痛を被る善人」が、三番目には不正が暴かれたがゆえに苦痛を被っているもの、「苦痛を被る悪人」が、もっとも下の四番目には、不正を行なうことで快楽を得ているもの、「快い悪人」が当てはまることになる[3]

 作品内におけるソクラテスの発言は、主に快楽を重視する者たちに対する反論が多かったので、その意見の多くは、善が快楽に反する場合、つまり上から二番目のよさに類するものが多いと思われる。ではこの、最もよいとされる存在、善と快の両方を備えた存在には、具体的にどのようなものが当てはまるのだろうか。それを述べるためには、ソクラテスがカリクレスと支配者について対話している箇所が参考になると思われる。こちらは引用を引く。

それでは、不正を受けることは全くないか、あるいは受けたとしても、それを最小限に食い止めるための備えとなる技術とは、いったい、どういうものなのだろうか。……自分自身が一国の支配者となるか、あるいは、独裁者にさえなるか、もしくは、現に存在している政体に味方する者となるか、そのどれかになるのでなければならないと思われるのだ(同上510A)。

 このソクラテスの発言は、先ほども示した、善と快の両方の益を受けるための方法を議論している際に出されたもので、つまりはこの、「自分自身が一国の支配者となる」ことこそが、両方を得るために必要だということを示唆している。一つ気を付けなくてはならないのは、支配者という存在は、苦痛からは最も遠い位置にあるかもしれないが、代わりに不正とは最も近い位置にあるということである。ポロスとの対話においても、快い悪人の例とされたのは、放蕩の限りを尽くす支配者の存在であった(同上470D~471D)。これは先ほどの対比で示した順位において最下位のものである。しかし、見方を変えれば、不正を起こさぬように、最善を目指すように統治する支配者がいるとすれば、それは善と快の両方を持つ存在になるということであり、これは先ほどの対比において一位のものである。

 また、この後の対話の展開においてソクラテスは、人々は不正を受けぬように支配者に似た性格になるということ、そして、真の政治術は人々を最善の方向へ導くということを主張する(同上510A~E, 513C~E)。ここから言えることは、一国の支配者が快い善人であった場合、その善を目指す姿勢は国民全体に広がり、皆がそのよさを分け知るようになるということである。この支配者の姿勢は、後に『国家』の中で語られる、「哲人王」思想の前段階と見ることが出来る[4]。以上が、快い善人の具体的な内容を示す説明である。

 

3.結論

 本論ではこれまで、『ゴルギアス』における快と善の関係性と、そこから明らかになる最もよい人間像の内容についての議論をしてきた。概説すると、最初はポロスとの対話におけるソクラテスの主張を確認し、善は快より優先されることと、快い悪人よりも苦痛を被る悪人の方がよいことの二点を説明した。その次は、カリクレスとの対話部分を確認し、善がそれのみでよいのではなく、同時に快に与ることも考慮されることを説明した。そして、上記の説明により、最高から最低まで全部で4段階の人間像の対比を示した。それからは、議論を快い善人の具体的な内容へと進め、不正を受けないためには一国の支配者になる必要があることと、人々に支配者の性質が伝播していくことを確認し、そういった支配者こそが快い善人であることを説明した。また、それは後の哲人王思想とも重なるものであり、その萌芽と言えるものだということを説明した。

 今回の議論により明らかとなった4つの人間像は、確かに納得いくものであったが、筆者の直観としてはむしろ、苦痛を被る善人の方がよい存在のように思われる[5]。また、『国家』の中でも、哲人王は政治に携わりたくない哲人が、法律によって無理に就くものとして登場する。哲人王ですら、先の順位において二位にしかならないかもしれないのだ。そう考えると、快い善人とは一体何なのかという問題になってくる。この問題については、また別の機会を設けて考えてみたいと思う。

 

参考文献

プラトンゴルギアス』 加来彰俊訳、岩波文庫、1967年。

—— 『国家』(上巻) 藤沢令夫訳、岩波文庫、1979年。

 

計3040文字(表題部除く)

 

[1]ゴルギアス』469C。「もし、不正を行なうか、それとも不正を受けるか、そのどちらかがやむをえないとすれば、不正を行うよりも、むしろ不正を受けることを選びたいね」

[2] 同上499C~D, 509D~E。「人は何を身に備えたなら、……不正を行なわないことから生ずる益と、不正を受けないことから生ずる益と、その両方ともを持つことになるのだろうか」

[3]  図-1 人間像の対比図

1.快い善人    

2.苦痛を被る善人 

3.苦痛を被る悪人 

4.快い悪人    

[4]『国家』Ⅴ.471C~474C。哲人王思想が理想論か現実論であるかどうかは、議論が尽きぬ点である。今回用いた『ゴルギアス』において、ソクラテスは最後に死後の世界の説明を行うことで、善が何においても優先されるという持論の補強をしている(523A)。ここから言えることは、現世において快い善人が現れることは、ほぼあり得ないのではないかということである。快い善人はもはや天上の存在であり、地上においての正しき法は、その正しさのあまり、快に与れない形でしか表出できないのではないかと筆者は推測する。

[5] 例えば、完全な統治を成し、自らも快くいられる支配者より、人の痛みを知っている善人の方がよいように思われるということである。