電子の雑煮

レポートが苦手な大学生です。苦手を克服するためにレポートを公開したいと思います。

ポスト・スターリン期における権力闘争と「雪どけ」

 

1.序論

 本稿は、スターリンが亡くなった後のソ連において、政治や社会がどのように変化していったのかを検討するためのレポートである。したがって本論においてはまず、スターリンが亡くなる直前のソ連の状況を説明する(第2章)。その後、スターリンの腹心である幹部らについて説明し(第3章)、その中から特にベリヤが躍進したことを追ったのち(第4章)、ベリヤが排斥され、フルシチョフがトップに立つまでを概説していく(第5章)。

 

2.スターリンの死

 1953年3月、スターリン脳卒中で亡くなった。晩年のスターリンは猜疑心を強め、寝室に誰も入らないよう指示していたため、病状の発見が遅れたのである。スターリンが亡くなる直前のソ連の状況は、最悪と言っても差し支えない様相であった。第二次世界大戦の「勝利の陶酔」によって自由化を求めた民衆の運動は徹底的に潰され、西側諸国との間には「冷戦」が始まっていた。53年1月に、スターリンの担当医師9人が彼を暗殺しようとしたとして逮捕される「医師団事件」が起きると、国内の不安はさらに加速する。逮捕された医師の多くがユダヤ人であったことが、人々に大テロルの再来をさらに予感させたのである。48年にイスラエルが建国されて以降、ソ連内のユダヤ人は出国の恐れがあるとして、反ユダヤ主義キャンペーンが行われており、ユダヤ人粛清の雰囲気が強い状況下にあった。

 

3.集団指導体制の確立、諸幹部の様相

 スターリンが亡くなった後の幹部会では、今後の指導方針が話し合われた。幹部たちは集団指導体制を構築していくことを確認し、首相マレンコフ、内相ベリヤ、党書記フルシチョフを中心に、ポスト・スターリンの体制を構築していった。また幹部会ビューローが廃止され、以前の政治局の規模に戻された。よって、古参幹部のモロトフとミコヤンが指導部に復帰した。以下では、当時の指導部にどのような幹部がいたのかを、簡単に説明したい。

 まず重要なメンバーは、前述したマレンコフ、ベリヤ、フルシチョフら、いわゆる新顔の幹部らである。最終的な勝者フルシチョフは、クルスク生まれのウクライナ人であり、一方のマレンコフはマケドニア移民である。両者は独ソ戦において大きな活躍を見せ、晩年のスターリンによって引き立てられた。

 ベリヤはグルジア系の一部族、ミングレル人の出身であり、秘密警察の長官を務めていた。彼は大テロルの実行を担ったエジョフの後任としてこの役職に就き、その後の虐殺を主導した。また彼は当時ソ連が躍起になっていた核兵器開発の部長も務めており、重要な人物であったことは間違いないが、スターリンの最晩年の頃(50~52年)には冷遇を受けた。スターリンはベリヤを失脚させるために、彼の出身であるミングレル人をあらぬ疑いで逮捕し、その責任をベリヤに押し付けるなどの行動に出た(ミングレリア事件)。ただしベリヤは、ミングレル人の出身でありながらも、彼らと友好的な関係にあったわけではなく、むしろ責任を擦り付けられないように自ら秘密警察を動かし、ミングレル人への抑圧自体を隠蔽しようとしたと目されている。

 ベリヤとマレンコフは、戦後の文化批判を主導した幹部のジダーノフが48年に亡くなった後、結託してジダーノフ派を排除する動きを見せた。これには、ジダーノフ派がロシア民族主義を掲げていたことが、非ロシア系の幹部にとって不都合だったという背景があると考えられており、これによって数千人が逮捕されるという事件へと発展した(レニングラード事件)[1]。この事件による欠員で幹部候補へと昇進したのが、後に幹部として躍進するスースロフである。

 最も古株なのは、スターリンの右腕として20年代から長く活躍してきたモロトフである。彼は首相兼外相として辣腕を振るい、独ソ不可侵条約や日ソ中立条約を締結したことで知られる。しかしモロトフは戦後、急速にスターリンの信用を失い、幹部会から外されるなどの処分を受けた。この失脚の背景には、スターリンが体調を崩していた際に、代わりに政務を担ったことや、西側諸国に対する、ある程度寛容な態度(これがスターリンには行き過ぎに見えたらしい)、婦人がユダヤ人であり抑圧を受けたことなどが重なっていると見られる。その他、彼の詳細な活躍は下斗米(2017)に詳しい。

 残る幹部はミコヤンである。彼もまた古参の幹部であり、貿易大臣に相当する職を30年以上務めた。彼はフルシチョフによる「スターリン批判」の際も早くからその肩を持ち、反党グラード事件以降も幹部の中で唯一その席を守った。彼は、ソ連の歴史を通して最も長く幹部の席に残り続けた人物だと言える。彼の出自はアルメニアにあり、また弟には、ソ連の主力戦闘機を開発する航空機設計企業MiGの設立者、アルテム・ミコヤンがいる。

 以上が、主要な党官僚の説明である。彼らによる集団指導体制は、同時に権力闘争の様相を見せていく。しかし彼らの闘争は、これまで取られてきたような抑圧ではなく、解放という形で国民に明かされていく。「雪どけ」の時代である。

 

4.「雪どけ」の時代

 集団指導体制の中から先駆けて行動を見せたのは、内相のベリヤであった。彼は秘密警察による独自の情報網を持っており、他の幹部より国民の訴えを把握しやすい立ち位置にあった。彼は国民の解放を求める流れを汲み取り、急速な改革を展開した。彼はまず、53年3月に大規模な大赦、すなわち刑の軽い犯罪者の解放や刑期の軽減を発表した。当時、ソ連強制収容所には約240万人もの人が捕まっており、その半数もの人々が順次解放されていくこととなった。ただし、大赦による急激な労働人口の増加は、職にあぶれる人の増加も招き、結果として犯罪率の上昇など、社会不安の悪化も引き起こした面もあると言える[2]

 また、ベリヤは医師団事件を捏造だったとして取り下げ、加えてソ連第二次世界大戦後に併合した東欧諸国に対する抑圧を緩和し、現地の裁量を認める姿勢を打ち出した。こうしたベリヤによる急速な改革路線、つまり非スターリン化の兆候に対しては、反発する幹部も多く、幹部会におけるベリヤ排斥の機運は次第に高まった。同年6月、東ドイツのベルリンにおける労働者ストライキが暴動に発展し、市民に死傷者が出ると、幹部会はベリヤの政治方針への反発をより強めるようになり、同月にベリヤの逮捕に踏み切った。当時ベリヤは治安の悪化への対処を理由に、モスクワに内務省が管理する軍隊を集中させており、それがクーデターの陰謀だと捉えられたのである。結局ベリヤは同年12月に処刑された。

 以上の流れで気になることは、ベリヤという大量粛清を担った人物が、なぜここまで急速な改革を行ったのか、という点である。岡本(2018)はこれについて、「大テロルの責任者として自分が追求されるのをそらす狙いがあったのではないだろうか」と述べている(p.151)。筆者としてはそもそもの問題として、幹部たちはスターリンの命令に忠実に従いながらも、その実彼の命令に心までも納得しているわけではなかったのか、この点が気にかかっている。これについて下斗米(2017)は、「モロトフだけがスターリンの死を心から悼んだ」と述べている(p.189)。独裁者を支える幹部たちであっても、人物にまで心酔していたどうかは別問題なようだ。事実、「雪どけ」の空気はベリヤの処刑後も留まることはなく、残りの指導部によって、いっそう推し進められていった。

 改革の波は農業政策にも及んだ。食糧問題は、抑圧による農民の意欲の減退などによって戦後になっても解決しておらず、国民を飢餓から救うことは政府の急務であった。指導部は53年4月に穀物調達価格の引き上げを行い、食糧問題に取り組むが、それでも国営商店だけでは供給が間に合わず、8月に宅地付属地における副業、つまりコルホーズ市場用の農産物生産の容認を行った。それまで宅地付属地は、戦後の引き締め政策によって管理を厳格にされており、厳しい税制が取られていたが、それも次第に緩和されていくこととなった。加えてマレンコフやミコヤンは、9月に食品加工や紡績などの軽工業への転換方針を打ち出した(ただしこれはフルシチョフの重工業路線とは対立することとなった)。食糧問題はこの期を境に改善の兆しを見せていく。

 

5.フルシチョフの攻勢

 ベリヤを排除した後の指導部では、マレンコフとフルシチョフが権力闘争を展開し、結局フルシチョフが勝利することとなった。ここではその流れを簡単に見ていく。

 集団指導体制は当初、首相のマレンコフが名目上のトップとして始まった。彼は新体制の当初から「個人崇拝」、つまりスターリン崇拝を批判しており、非スターリン化を率先して行おうとしていたと見られている。

 対して共産党第一書記のフルシチョフは、当初ベリヤの政策を「スターリン路線からの乖離」として批判しており、既存の路線を変えるつもりはなかったと見られている。フルシチョフの「スターリン批判」の傾向は、マレンコフを辞任に追い込んで以降、急速に表舞台に現れる。こうした彼の態度の変遷には、世論の流れを汲んでのことや、同僚の名誉回復を求める自派の古参ボリシェヴィキらの強い要望などが、その背景にあるのと同時に、モロトフなどの親スターリン派を排除するために展開されたものだと見ることができる。逆説的に、マレンコフと権力闘争を繰り広げていた頃のフルシチョフスターリンに対する態度はその過渡期にあり、非常に曖昧なものだったと言える。

 フルシチョフは農業政策の担当として、54年1月に食糧問題を解決するための処女地開拓政策を提案する。このために動員されたコムソモール(共産党青年部)員の熱意は非常に高く、数十万人もの若者が、カザフスタンや西シベリアなどの未開の極地へと赴いた。結果的にこの政策は一時的な成功を見せ、フルシチョフの求心力は非常に高まることとなった。ただしこの政策は、コムソモール員をずっと農業に従事させることは不可能なので、一時しのぎに近い政策でもあった。開拓地が不作に見舞われると、途端に国内は穀物不足に陥った。

 この政策の影響で権力を固めたフルシチョフは、マレンコフが48年に引き起こしたレニングラード事件を再捜査し、これを攻撃の材料としてマレンコフを追い込んだ。55年2月にマレンコフは辞任し、後続の首相にはフルシチョフ派のブルガーニンが就任した。そしてフルシチョフは、56年2月の第20回党大会で「スターリン批判」を秘密裏に発表し、少しずつ大きな波紋を広げていくこととなる。

 

6.結論

 本稿ではこれまで、ポスト・スターリン期における雪どけと権力闘争の進展について論じてきた。結論として、この時期以降社会的抑圧が緩和され、密告による逮捕への恐怖などから、人々はようやく解放される運びとなった。また、党幹部による権力闘争の結果フルシチョフが勝利し、新たなる指導者が権勢をふるうこととなった。これ以降にも反党グループ事件など、権力闘争はまだまだ続くが、ここまでを見るだけでも、スターリン以降のソ連がどのように姿勢を転換したかの一端は知ることができるように思われる。

 

〈参考文献〉

・岡本和彦(2018)「書評論文 スターリン批判の始まりと帰結に関する一考察 ―和田春樹 『スターリン批判 1953~56年 一人の独裁者の死が、いかに20世紀世界を揺り動かしたか』作品社、2016年」『東京成徳大学研究紀要-人文学部応用心理学部-』、第25号、149~160頁。

・下斗米伸夫(2017)『ソビエト連邦史 1917-1991』、講談社学術文庫

・中嶋毅(2017)『世界史リブレット人 089 スターリン 超大国ソ連の独裁者』、山川出版社

松戸清裕(2011)『ソ連史』、ちくま新書

 

計4590字(表題部除く)

 

[1] 共産党幹部の多くが非ロシア系だったという事実は、戦前の共産党民族主義とは異なる信念の下で動いていたことを強く実感させるものであり、粛清自体は認められるものではないが、興味深いソ連の特徴だと見ることができる。

[2] 松戸(2011)、91頁。