電子の雑煮

レポートが苦手な大学生です。苦手を克服するためにレポートを公開したいと思います。

いよわ『バベル』(2023)についての考察

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・いよわさんの『バベル』(2023)という作品を聞いてみたところ、非常に感動して色々考察を試みてしまいました。その考察の殴り書きが貯まったので公開してみます。拙い内容かもしれませんが、同様に想像力を搔き立てられた方がいましたら、読んでくださると嬉しいです。

・今回の曲のテーマは、「大人になった少女」と「少女の周囲の景色に対する感じ方の推移」を主題にしているように思われる。

・繰り返し現れる「塔」の表象はまず、少女の周囲の建物を指している。時にそれは、『旧約聖書』の「バベルの塔」のエピソードのように、ある種少女にとって、傲慢で、強引で、それに圧倒されるほかないほどの力で、比喩として圧倒するものとして立ち現れる。

・「商店街の向こうには ショッピングモールが建ったんだよ」という歌詞からは、少女が小さい頃、商店街をよく利用していたことを想像させる。少女は商店街のどこかのお店の子どもだったのだろうか。それとも近くに住んでいたのだろうか。少なくとも少女は、商店街の駄菓子屋さんあたりで買える、素朴な味の「チューペット」が好きだったようだ。その思い出と対比されると、「ショッピングモール」は、少女の思い入れのある場所を破壊する「バベル」を意味することになる。しかし、ショッピングモールの側も、別に少女に悪意を持ってそこに建てられたわけではない。あるとすれば、それは時代の移り変わりという残酷さだけだろう。

・少女は「注目の的だったマドンナ」や「昔はまったアイドル」など、周囲の女性に憧れを持っていたことを繰り返し述べている。「儚い憧れ積もる 積もる」といった歌詞も、そういう人たちへの憧れを指しているのかもしれない。時間が経った今、少女は自身を「珍道中」だと自虐的に揶揄している。まだまだその距離は遠いと、少女は考えているのかもしれない。少女と憧れの存在の間の距離感、これもある種の「塔」の比喩だと言えそうである。

・アイドルの話の続きで、「隣町の駅で 泣きながら祝ったんだよ 」という歌詞からも、当時の少女の思い出を想像できるかもしれない。「隣町の駅」には、同じアイドルのファンの友人が住んでいたと仮定してみよう。2人はアイドルの卒業ライブに行った帰り、その駅で降りて、ライブを振り返って泣き合った思い出があるかもしれない。少女は自分の住んでいた街に、様々な思い出を持っていることがうかがえる。

・「ぴかぴかになった 夢のクローゼット眺め考え中」という歌詞には、いよわさんの以前の作品、『アプリコット』(2021)における、少女時代への憧憬のイメージを、そこに重ねることができる。クローゼットの中には、当時のあらゆる夢が詰まっている。これは『アプリコット』における「宝箱」の一種とも言えよう。少女の想いはここに全て詰め込まれていた。少女は今に至って、その現実とのギャップを、考えを巡らせて埋めようとしている。少女はこんな自分を「馬鹿だ、本当にさ。」と感じることもあるのかもしれない。しかし、こうやって突き放したくなるほどの強い想いを回想すること、それを共有することこそが、作者の目的でもあるように推測される。少女の(かつての)強い想いは、一方で、今でもギャップとして現実を突き動かしている。MVの中の大人になった少女は、未だに羽を手放してはおらず、それをおさげとして付ける仕草(=重音テトになりきる?)を通して、現実を超越しようとしている。

・「酸っぱい果実が熟れる 熟れる」「2着になった その一張羅」という歌詞からは、少女が自分の目標とする職業に就けなかったことが推測される。一つ目は、イソップ童話『酸っぱい葡萄』との言葉の類似から、期待通りに物事が進まなかったという連想で、二つ目は、その服以外の替えが効かない「一張羅」(=制服?あるいはファッションデザイナー等の、一着一着を作っていく職業?)が、替えの効いてしまう服(=スーツ)になっているという理由の推測からである。「書類の束ばっか おとなになった今年を堪能中」という歌詞からも、少女が現在、事務仕事に追われていることがうかがえる。しかしそれでも、少女はそれらの現状を「堪能」しているらしい。少女は、日常の中の様々な出来事に、大げさなまでの反応ができるタイプなのだろう。小さい頃は、少女の周囲の全てが、異質な、言葉の通じない「バベル」として聳え立っていたのかもしれない。大人になって少女は、その「バベル」が崩壊したこと自体に、それが「バベル」たる所以を見出している。「バベル」はそもそも、崩壊することが宿命づけられている建物だからだ。

・「重なった空が落ちる 落ちる」という歌詞は、杞憂なはずのことが実際に起きたという意味と、その意味から、重音テトという、エイプリルフールの嘘そのものだった存在が受け入れられていくいう意味のダブルミーニングが生じていて興味深い。この辺の歌詞は、「逆さまになった未来の塔」という歌詞が、背景のブリューゲルの『バベルの塔(小)』(1568)を逆さまにした形と、テトのドリルツインの髪型を重ねているという解釈を見かけるなど、「重音テト」という存在そのものへと宛てる歌詞となっていることがうかがわれる。いよわさんによる、重音テトの「Synthesizer Ⅴ」実装のお祝いを、メタ的な意図として読み取ることができる。

・ただ、あくまでも作中の少女の解釈という面も見てみると、MVの中で、少女が落下する姿勢に変わっている点は、注目に値するかもしれない。「塔から落ちる」「逆さまの塔」という表象は、タロットカードの「塔」の逆位置を思い起こさせる。「塔」の逆位置は、タロットカードにおいて最も不幸だともされる配置で、突然のトラブルや、天変地異の前触れを意味するという。少女はそんな不幸に見舞われる中で、必死に自分に「嬉し涙を隠す 隠す」と嘘をついて、堪えようとしているのだろうか。しかし、次の歌詞を見てみると、「パラシュートがまた開く 開く」と続く。どうやら、少女にとって世界がひっくり返るほどの衝撃は、何度も体験したことがあるもののようだ(少女の感受性が非常に高いということは前述した)。少女はあくまでも前向きに、「明日を 考え中!」とだけ述べて歌を終える。ここからうかがわれることは、まるで「バベルの塔」のような、崩壊を招く落雷や突風に相当する体験を少女は繰り返しながらも、それらが自身の感受性の高さによる、大げさな体感であることを、彼女は心のどこか自覚している、という少々冷めた視点だ。少女は日々の繰り返しの中で、「名高い段差を歩く 歩く」「拙いペースを守る 守る」と、ゆっくりでも歩を進めていくことを自分に定めている。その意味で言うならば、「バベル」は自身の目標や憧れをも意味することになるだろう。少女のこうした前向きさからは、何度打ちのめされても、ふたたび「塔」を登っていこうという柔らかな決意を感じ取ることができる。

ブリューゲルの描く『バベルの塔』のように、「バベル」は建築途中ながらもすでにどこか歪で、中身が剥き出しになっていたり、アーチが歪み始めていたりと、崩壊することがすでに定められているように見受けられる。しかし、それでも私たちは、その「バベル」に憧れ、それを建てようとして、そして懲らしめられざるを得ない存在である。この曲が伝えようとしていることは、人間と、そうした周囲にある大きな存在との対比の中で、無力な人間が抱く複雑な感情を描こうとしているように推測される。

・また一方で、異質な「バベル」は日常のあちこちに埋め込まれているが、それに巻き込まれていることに気付ける人は少ないだろう。「バベル」は言語が分散した起源の伝説として、人々の感受性を共有し切ることができないという、分断の象徴性をも担っているように推測される(ただ、苦しみを他者と共有し切れないことは、悪いことではないのかもしれない)。果たして私たちは、お互いの「バベル」の中で、他者の「バベル」に迷い込むことができるのだろうか(私たちはそうしたいのか?そうできない方が幸せなのか?)。期待と不安を胸にして、少女と私たちの塔登りは今日も続く。

哲学史のススメ

〈はじめに〉

 この記事では、哲学に興味を持った方が最初に読むのにおすすめの本の紹介をします。下記の哲学史の本たちは、ある程度の専門家が書いている本の中で、堅苦しすぎずに読めるものをピックアップしてみたものです。気負わずに、気楽にトライしてみてください。哲学の本は、確かに小難しいことがつらつらと書いてあるものが多いですが、慣れてくると意味分からんなりにも、「こういうこと言ってるのかな…?」ぐらいの推測は立てられるようになると思います(今の自分でも、正直まだそんな段階ですが…)。ふと思ったその関心が、ゆくゆくは研究のテーマ(学生さんの場合は卒論とか)にまで膨らんでいくということも、往々にしてあります。自分の中のささいな「気になる」を、必ず見過ごさないようにしましょう。

 また、これは山野(2022)の受け売りなのですが、本にはぜひ書き込みをしましょう(実際の書き込みの仕方は、山野(2022)を読んでみてください。自分でもいつかまとめたいです)。ただし、借りた本に書き込んではいけません。そのため、しっかり腰を据えて読む本は、なるべく買うことが望ましいです。一応本の値段も一緒に書いておきますが、多くは古本も出回っているので、適宜古本屋や販売サイト(Amazon、日本の古本屋、ヤフオク、メルカリなど…)を上手く利用して集めるようにしましょう(積読は恥ではありません。読まれる機会を待っているだけなのです!)。

 下記のものに飽き足らず、より詳しく知りたくなった方は、こちらの記事も参考になるかもしれません。

・ネオ高等遊民「【哲学史】時代・地域・テーマ別おすすめ解説書100冊」

https://note.com/kotoyumin/n/n0271d0732fa5

→哲学を紹介するYouTuberの方が書かれた記事です。自分なんかよりよっぽどたくさん読んでらっしゃるので、ぜひ!

〈本の紹介〉

納富信留檜垣立哉・柏端達也編(2019)『よくわかる哲学・思想』、ミネルヴァ書房。-2640円。

→本書は、それぞれの分野の専門家が分担して書いた入門書です。それぞれのトピックが見開き1ページで収まっているので、気軽に読むことができます。読書案内も充実しているので、ステップアップしていく一歩目に最適の入門書だと言えます。最初はこの価格帯の本を少し高いと感じるかもしれませんが、この本の価値が分かってくると、値段にも納得がいくと思います。(追記:ミネルヴァ書房からは、こうした見開き型で専門家による知見を手軽に読むことのできるタイプの入門書が、ここ数年よく出ています。歴史学の『論点・○○史学』シリーズなども非常におすすめなので、興味がある方はぜひのぞいてみてください)。

 

岩田靖夫 (2003)『ヨーロッパ思想入門』、岩波ジュニア新書。-990円。

→この本は、哲学だけでなく、ギリシア神話や聖書の要点を押さえられる点で、とても優れた入門書だと言えます。哲学の本を読んでいると、そういったヨーロッパの昔話が「当然知ってるでしょ?」といったノリで使われることが本当に多いです(あちらの方からすれば、「桃太郎」や『源氏物語』を引用するような感覚なんでしょうね)。「そういうの全然知らないわ…」という方は、まずはこの本でウォーミングアップをしてみましょう。宗教と哲学の関係の深さも、本書を通して理解できると思われます。コスパ的には一番おすすめです。

 

③ 伊藤邦武(2012)『物語 哲学の歴史:自分と世界を考えるために』、中公新書。-990円。

→有名な哲学者たちを並べて断片的に解説するのではなく、タイトル通り、古代から現代までの哲学の歴史に一つの流れを見出そうとすることを試みている、意欲的な本です。一人の著者がまとめて書いている哲学史はどれも、もちろん公平な記述が目指されてはいるのですが、時折、筆者自身の問題意識が反映・接続されたりすることがあって興味深いです(この本の場合だと、「心」や「意識」といった主題が前に出ていると言えるでしょうか)。文章も非常に考えを尽くして書かれており、後になって読み返すことでさらに見えてくるものも多い、傑作だと聞いています(先生からこの話をうかがったのですが、自分はまだ全然その領域に至れていません…)。

 

熊野純彦 (2006)『西洋哲学史:古代から中世へ/近代から現代へ』(全2巻)、岩波新書。-各巻1078円。

→本書は、これまでの哲学史ではあまり重視されていなかった部分(ヘレニズム期~中世の哲学、啓蒙思想の諸相など)も盛り込むことで、基本となる説明はもちろんのこと、哲学史の新たな一面を示そうと試みている本だと言えます。内容も非常によくまとまっていますし、原典が多く引かれているので、実際の著作の雰囲気も試してみることができます。後ろの説明付きの索引も、初学者にとっては非常にありがたいです。2冊目以降に挑戦する本として、最適だと思われます。

 

⑤ バクストン, レベッカ、ホワイティング, リサ(2021)『哲学の女王たち:もうひとつの思想史入門』、向井和美訳、晶文社。-2200円。

哲学史の本を読んでいくと分かることですが、学問の歴史にはマジで男性しか出てきません。このことに疑問や不満を持つことはもっともだと思います。本書は、女性の哲学者だけをピックアップしてまとめた哲学史であり、上述のような気持ちを抱いた人の助けになるであろう本です。これを読むと、哲学史においていかに女性の活躍が矮小化されてきたかを理解することができます。「時代が時代なんだからしょうがないじゃん」と思ったそこのあなたにも、本書は読まれるべきです。それは、彼女たちの活躍が「紙幅の関係上」、省略されてきたことは間違いないからです。

 

 付け加えておくこととして、上記の本たちは入門書としておすすめというだけなので、学生さんがレポートを書く際には、入門書・概説書だけでなく、辞典や大部の哲学史も利用してみましょう。大学の図書館や規模の大きな図書館には、オレンジ色のカバーがよく目立つ『哲学の歴史』(全12巻+別巻、2007-2008、中央公論新社)や、近年新訳が出版された『スクリブナー思想史大事典』(全10巻、2020、丸善出版)、哲学科生なら持っていて絶対損しないところの『岩波 哲学思想事典』(1998、岩波書店)など、多くの専門書がそろっています。そこから、レポートで使えそうな説明を探して、事前に印刷しておくようにしましょう(奥付も忘れずに!)。

 

〈本の選び方〉

 上記以外にも、様々な学問分野や本に興味を持ってもらえると嬉しいです。本選びのコツは、①著者・訳者・編者(誰が書いたかはもっとも重視しなければなりません)、②出版社(残念なことに、信用できない出版社もあります…)、③出版年の三つを意識して買うことです。買ってから「失敗したな…」と思うこともあるかもしれませんが、その買い間違いの体験こそが、皆さんの目利きの程を高めてくれるはずです。恐れずに買い間違えましょう。とりあえず、ある程度信頼のおける出版社の文庫・新書レーベルの一部を以下に挙げておきます(これ抜けてるよ!というのがあればぜひご連絡ください)。

〈おすすめの出版社リスト〉

岩波書店岩波文庫岩波現代文庫岩波新書・岩波ジュニア新書)

筑摩書房ちくま学芸文庫ちくま新書ちくまプリマー新書

講談社講談社学術文庫、△講談社現代新書講談社選書メチエ

中央公論新社(中公文庫・中公新書・△中公クラシックス・日本の名著・世界の名著(←古本しか出回っていませんが、中公クラシックスの内容と同じものが詳しい解説付きで、一部激安で読めます。神保町の古本屋さんを巡ってみてください))

⑤その他おすすめ:NHK出版(NHKブックス)、河出書房新社河出文庫)、光文社(△光文社古典新訳文庫(←平易な訳を心がけるコンセプトは素晴らしいのですが、一部批判の多い訳書もあるので、事前に評判を調べてから買うことをおすすめします))、清水書院(「人と思想」シリーズ)、新潮社(新潮文庫、×新潮新書)、白水社文庫クセジュ)、平凡社平凡社ライブラリー平凡社新書)。

 

〈参考文献〉

山野弘樹(2022)『独学の思考法 : 地頭を鍛える「考える技術」』、講談社現代新書

『熱異常』考察(書きかけ)

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総評

・『熱異常』(作詞・作曲・編曲いよわ)があまりに自分に刺さってしまい、クソデカ感情をどうしたらいいのか分からなかったので、歌詞考察を試みていました。まだ書きかけなのですが、試験的に公開してみます。お見苦しい限りなのですが、もし刺さった!という方がいれば、共にその感想を分かち合いたいです。よろしくお願いします。

・本作の考察を進めていく中で私の中に生まれていった疑問は、当該の世界観の足立レイの立ち位置についてです。本作は作者のいよわ氏が、初めて「レプリボイス 足立レイ」を使用して作曲した作品であり、立ち絵にも足立レイが使用されています。本作は「終末もの」の世界観を呈しており、彼女の視点から、滅亡に向かう世界を記録した、と見るのが妥当な解釈のように思われます。この場合に問題となるのは、歌詞の中に、ロボットには存在しない、生身の人間に関連するワードが頻出することです。本考察では、レイ自身が生身の肉体を得た場合と、レイ以外の人物がレコーダーに記録を残していたという二つの解釈に分けて、考察を進めていきたいと思います。

・本作における世界崩壊、アポカリプスの原因は、①クトゥルフ神話、あるいはSCPにおける危険な異常存在による世界崩壊シナリオなどの、意思ある上位存在による滅亡のパターンと、②「熱異常」というタイトルが象徴するように、なんらかの自然的現象(隕石の衝突とか?)によって滅亡するパターンの、いずれか、あるいは両方が考えられます。こちらも二つの場合をどちらも取りうる、という視点で考察していきたいです。

歌詞の考察

(※)「死んだ変数で繰り返す

数え事が孕んだ熱

どこに送るあてもなく

あわれな独り言を記している

 

・「死んだ変数」「数え事」は、機械的なイメージを与えます。レイが持っているレコーダーか、あるいはレイのロボットとしての身体を指しているように推測できます。

・(※)「死んだ~孕んだ熱」までの歌詞は、曲全体の中でリフレインされます。これはつまり、レコーダーに記録された側の音声で、幾度も再生されていることを意味しているのではないでしょうか。レイがレコーダーに記録した、自らの状況の記録なのかもしれません。

・「熱」は本作において、タイトルにも入っているようにキーワードだと言えます。これはかなり自分の妄想が入ってしまいますが、「熱」を持つものは、恒温生物、つまり、魂や生命と結びつけられそうです。レイ/レコーダーは、本来はただの機械でしかありませんが、それが「熱」を帯びることで(この現象自体が「熱異常」の一つなのかもしれません)、魂を持つ存在となり、流浪の旅をしていたのではないでしょうか。

・レコーダーは「あわれな独り言」を記録し続けますが、これは元の持ち主か、あるいはレイの体験・証言を指しているものと思われます。この曲そのものが、レコーダーに記録された音声の再生という形式を取っているという解釈を見かけ、とても興味深く思いました(歌詞の最初と最後の鉤括弧からも、この曲全体が再生されているものという推測を可能にします)。

 

電撃と見紛うような

恐怖が血管の中に混ざる

微粒子の濃い煙の向こうに

黒い鎖鎌がついてきている

消去しても ……

無くならないの

 

・Aメロ(正直ポエトリーリーディングかラップに近いので、こうした区別は不要かもしれません)

・レイはロボットの身体なので、時折言及される生身の人間の身体の特徴は多少の違和感を覚えさせます。解釈の方法は今のところ二つ、提案できるでしょう。(1)人間的な特徴の記録は、以前のレコーダーの持ち主による「異常」の記録と見る。(2)レイ自身が何らかの方法で肉体と魂を得て、その身体で「異常」を体験している(前パートを参照)。

・本作の最大の特徴である、高速のリフレインは、動揺、錯乱、強調などを表すのと同時に、壊れかけたレコーダーの不気味な再生とも取れます。このリフレインによって、切迫感が非常に増しています。

 

(※※)とうに潰れていた喉

叫んだ音は既に列を成さないで

安楽椅子の上

腐りきった三日月が笑っている

もう

すぐそこまで ……

なにかが来ている

 

・「潰れていた喉」は、本人の喉が潰れていたら声が出せないので、メタ的な言及になっています。レコーダーに記録されていた音声に対して、レイが状況記録を行ったと解していいのでしょうか?

・ここの歌詞は二つ目のリフレインとなっています。最初と最後に同じ諦めのニュアンスが提示されることで、「なにか」に対して、人間があまりにも無力だったことが示唆されます。

・「安楽椅子の上」は何を意味しているのか、推測が立てづらいです。「腐り切った三日月」の方も、そのままに受け取ることは不可能ではないですが、比喩的な表現と見てもよいと思われます。もしかしたら元ネタがあるかもしれませんが…。とりあえず、三日月は「笑っている」ので、後述の「黒い目」と関係しているかもしれません。上位存在に弄ばれて人類が滅んでいるのだとしたら、笑っているのは「なにか」の口とも取れるでしょう。

 

大声で泣いた後

救いの旗に火を放つ人々と

コレクションにキスをして

甘んじて棺桶に籠る骸骨が

また

どうかしてる……

そう囁いた

 

・人々の混乱の様が表現されています。

・骸骨が囁くのは、生死という理が崩壊していることを意味しているのでしょうか。あるいは、超常的に解さないのであれば、あまりに理不尽な滅亡に対するやり切れなさを表現していると見るのが妥当でしょうか。

 

未来永劫誰もが

救われる理想郷があったなら

そう口を揃えた大人たちが

乗りこんだ舟は爆ぜた

黒い星が ……

彼らを見ている

 

・宇宙船で地球を脱出しようとする計画が失敗したことが読み取れます。宇宙船は「黒い星」によって破壊されたのか、それとも、「黒い星」はただ見ているだけなのか、それは解釈によって変わってきそうです(上位存在とみるなら前者、異常現象とみるなら後者になるかもしれません)。

・「黒い星」とは何なのでしょうか。もし本当に黒色の星だとしたら、発光していないので、地上からは見ることができません。よって比喩と見るのが自然ですが、一体何の比喩だと解するのが適当でしょうか?自分なりの推測を列挙してみると、①空の色彩が変質し、黒い「なにか」が空から人間を見下ろし続けている。②上位存在の目、あるいは人間が怪物になったものが生存者を見ている。③太陽の黒点の可能性?太陽の黒点の数が増えると、フレア現象が同時に活発になると聞く。地球が消し飛ぶほどのフレア現象が起きた可能性も考えられるのではないか(「熱異常」というキーワードとも噛み合いがよい)、といった候補が立てられそうです。

 

哭いた閃光が目に刺さる

お別かれの鐘が鳴る

神が成した歴史の

結ぶ答えは砂の味がする

 

・サビ2

・強烈な光によって、多くの人間が亡くなる様が描かれます。神が作ったという世界は崩壊し、全てが砂へと還っていく、と解釈することができるように思われます。あるいは、「砂」を比喩として受け取るならば(ロボットの身体では味は分からないので)、砂粒が吹き飛ぶほどあっけなく/無価値に、人間の文明が滅んでいく様を表している、と見るのもありかもしれません。

・強烈な光と言えば、思い浮かぶのは原爆・水爆ですが、あれらは人類が滅ぶほどの威力は持ってはいません(それでも危険かつ絶対に使ってはいけないのは言わずもがなですが)。天体レベルでの異常が発生した(先程のフレアなど)と考えるのが自然でしょうか。

中世荘園制の成立について

 荘園とは、古代・中世を通じて存在した私的土地所有の一形態である。だが荘園は、単なる私的土地所有にとどまらない公的・国家的性格を有しており、中世の土地制度を構成する荘園と公領は、異質で対立していると見るよりも、共通する部分が多くあるものと見たほうが正確である。こうした見解を「荘園公領制」と言い、1973年に網野善彦によって提起されて以降、今日の荘園研究の基本理解となっている。

 荘園の性質は、11世紀半ばまでの、主に開発領主が開発や管理を担う「免田・寄人型荘園」と、荘園整理令が発布されて以降の、院や摂関家、権威のある寺社など、荘園領主側が中心となって管理を行う「領域型荘園(寄進地系荘園)」の2種類に大別される。後者の領域型荘園とは、各地に点在していた荘園が、寄進によって有力者の元に集合した体制であり、これによって荘園の公領化が推し進められた。勝山(1995)によると、11世紀末以降、荘園の年貢史料において、賦役が「公事」と称されていることから、荘園という存在が、単なる土地・人への支配関係から、公的なものへと変質したことを意味しているという。

 ここからは、中世荘園制が成立するまでの政治過程を追う。

 朝廷は11世紀中頃より、荘園の増加による公領の減少を危惧し始めていた。長久元年(1040)、延久三年(1069)に、朝廷より荘園整理令が発布されると、事態に変化が訪れる。これらの荘園整理令によって、正式な許可を得ていない荘園は公領として扱われ、課税の対象となった。開発領主側は、収公(許可のない荘園を公領に組み込むこと)された土地を放棄し、また新たな荘園の開発を差し止められる事態となり、混乱を来たした。

 元々この頃までの荘園にも不輸不入の権利は認められていたが、「一国平均役」という例外があった。これは、内裏造営などの国家事業や行事の経費のために、公領・荘園を問わず徴税や賦役を課すという命令であり、受領が朝廷に許可をもらうことで発行することができた。この一国平均役には寺社への課税を免除する規定があったが、受領はしばしばその規定を無視し、寺社にも課税を強要するケースが少なくなかったという。

 本来免除されているはずの課税を負わされた東大寺の荘園は、このことに抗議の意を示し、朝廷に永続的な不輸不入の権利を要求して、それを獲得する。各地の荘園は、権威のある寺社や上皇などに寄進することで、より確実な不輸不入の権利を得られることに気づき、寄進が相次いだ。結果的に各荘園が大規模なものとなり、荘園が公的な領地として扱われる傾向が強くなっていった。

 こうした中世荘園の原型は、白河院の周囲の人間関係によって形成された、近江国柏原荘・越前国牛原荘にあると見られている。こうした私的縁故、人脈による荘園形成は、中世荘園全体を通した特徴となる。この、院が主導となって立荘するという特徴は、一方で院自らが荘園整理令を出して荘園を公領に合流させながら、他方で自らが所有する荘園を統合、拡大させていくこととなり、自ら矛盾を抱えたまま政策を行っていたこととなる。

 興味深い現象として、中世荘園の年貢史料にはしばしば、実態にそぐわない高い年貢高の記録が散見される。これは、荘園を形成する以前に、先に取れそうな年貢高を本家と領家が話し合いで決めていたことが理由のようであり、稼働している本免田だけでなく、荒田の再開発や開発を含めた年貢が設定されていたと目されている。(1390字)

 

〈参考文献〉

・鎌倉佐保(2013)「荘園制と中世年貢の成立」『岩波講座 日本歴史 第6巻 中世1』、岩波書店、pp.131-162。

『ヨーガ・スートラ』について

〈序論〉

 本稿では、『ヨーガ・スートラ』の要約・解説を行う。本文献を教典とするヨーガ学派は、サーンキヤ学派と兄弟的な関係にある。そのため1章でサーンキヤ学派について概説したのち、『ヨーガ・スートラ』の説明に入る。ただし、サーンキヤ学派の主要教典『サーンキヤ・カーリカー』については、資料の関係上要約しか見ることができなかったことを先に断っておく。また今回は、用語を漢訳された熟語で示すか、それとも原典のサンスクリット語の音写をカタカナで示すかの区別を厳密に付けることができなかった。そのため一般的に知られているような用語、あるいは音写で示すことに意味があると思われる用語の場合のみ、用語をサンスクリット語のものに合わせた。

 

1.サーンキヤ学派の自然哲学について

 ここでは、ヨーガ学派の教説を理解するための前提として、サーンキヤ学派が持つ自然哲学について概説する。サーンキヤ学派では、宇宙の根本原理として、二つの究極的な原理を想定する、これは一般に二元論と言われる。一つは精神的原理としてのプルシャ(真我、根本精神)である。これは無限の個数からなる個々の魂のことであり、アートマンに同じである。もう一つは、物質的原理としてのプラクリティ(自性、根本原質)である。これは、一般には物質を構成するグナ(要素)の姿で現れる。しかし本質的には、世界の全てを含むブラフマンそのものの展開物であり、見方の遠近によって表象されるものが異なると言える。物質の素材であるグナには、サットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(暗質)の三種類がある。

 プルシャとプラクリティが出会うことで、物質と魂を結ぶ統覚、つまり、私たちが認識や精神と呼んでいるものが生成される。プルシャはプラクリティに覆い隠され、グナの一つ、サットヴァからはブッディ(覚)が生じる。そのブッディによる自意識の形成によって、アハンカーラ(我慢)が生じる。肉体と心を結びつける生理的反応は、マナス(意、感覚)と呼ばれる。ヨーガ学派では、これらの精神を構成する用語は、チッタ(心)の一語で示される場合が多い。用語を詳しく区別しないのは、外界への関心を断ち切っていく作業がヨーガであり、心身における認識の区別に重きを置かなかったためと予想される。

 『サーンキヤ・カーリカー』には、世界が生成される過程は書かれていても、それが行われる理由は書かれていない。佐保田(1976)は、「プラクリティの中におせっかいな気持ちが生じ」るのが理由だと記している(p.40)。ヨーガ学派が、自らの生きる世界が生じた理由を問うことがなかったのは、プラクリティによって「現れている」だけのこの世界に、さほど価値を見出さなかったためと予想される。前提として必要な用語の説明は以上である。

 

2.『ヨーガ・スートラ』について

 ここからは本題の『ヨーガ・スートラ』について説明する。まず、もっとも簡潔にヨーガの定義を示すと、「ヨーガとは心の作用を止滅することである」(『ヨーガ・スートラ』1-2)という。この心の作用を止める段階、三昧にまで至る道筋が、本書を通して説明される。

 前述したように、人間の認識、つまり心が生じる原因は、プルシャとプラクリティの接触によって生じる煩悩の一つ、無明にある。ヨーギーは、この煩悩による束縛から逃れることで、世界の展開(生成)から免れることを理想とする。ゆえに煩悩が、ヨーガをするに当たっての最も障害となる。「煩悩には無明、我想、貪愛、憎悪、生命欲の5種類がある」(2-3)。煩悩がなぜ生じるのかの理由は語られていない。煩悩の一つ、無明は、他の煩悩の源泉であるとされる(2-4)。また無明とは、非我のものを我と、無常のものを常と取り違えることを指す(2-5)。我想とは、ブッディをプルシャと取り違えることを指す(2-6)。ブッディはプラクリティによって生じるものであり、プルシャとは本来関係がない。しかしプラクリティは不滅であり、取り違えられたブッディは死後も保持される。これは我想幻質と呼ばれる。この考えは、輪廻転生において、魂の同一性が保持される理由を補うために導入されたと推測されている(佐保田, 1976, p.57)。

 続いてヨーガの内容について説明する。「ヨーガは8部門から成る—禁戒、勧戒、坐法、調気、制感、凝念、静慮、三昧」(2-29)。

 第一段階のヤマ(禁戒)は主に対人的、対物的なダルマ(法)を指す。これには、「アヒンサー(非暴力)、サティヤ(正直)、不盗、禁欲、不貪」の5つがある(2-30)。禁欲は、性欲の節制を意味し、不貪は最低限の物資だけを所有することを意味する。いずれのルールも完璧にこなすことは難しいが、できる限りの実施を求められる。この禁戒は、ガンディーの「サバルマティ・アシュラム」における生活実践として取り入れられたことでも有名である。特にアヒンサーの概念は、ガンディーの政治理念の中核を成した。

 第二段階のニヤマ(勤戒)は、主に対自的なダルマを指す。これには、「清浄、知足、苦行、読誦、イシュワラプラニダーナ(自在神祈念)」の5つがある(2-32)。「苦行、読誦、自在神祈念」の3つは、合わせてクリヤー(行事)・ヨーガと言われる(2-1)。以上の二部門は、ヨーガを始めるに当たって、三昧へと至る準備をすること、煩悩の力を弱めることが目的である。

 先述した自在神祈念の概念はとりわけ重要である。自在神とは、多神教的な神々、ヴェーダの神々などのことを指す。自在神は穢れの無い、優れた魂を持っているとされ、グル(師)の中のグルと言われる(1-24,25)。ヨーガ学派ではグルの存在が重視されるが、この自在神祈念によって、グルの代わりとしてもよいとされる。自在神を表した聖音「オーム」を繰り返し唱え、念想することが修行の一環となる(1-27, 28)。

 第三段階のアーサナ(坐法)は、瞑想をするに当たっての座り方を、第四段階のプラーナーヤーマ(調気)は、瞑想のための呼吸のコントロール法のことを指す。座り方は安定した、かつリラックスした姿勢がよいとされる(2-46)。調気の説明は抽象的であり、文意が判然としない。とりあえず、呼吸の長さを揃えること、数を数えること、息を止めること(クンバカ)を重視する点などは読み取ることができる(2-50)。これによって、マナス(感覚)が凝念に耐えられるようになるという(2-52)。

 第五段階のプラティヤハーラ(制感)とは、諸器官が、それぞれの対象と結びつかない結果、まるで心自体が模造品のようになる状態を指す(2-54)。これは、感覚をコントロールすることで、感覚が対象に向くことを抑える状態を意味するのだと推測される。

 第六から八段階は、ヨーガの内的部門に属する領域であり、合わせてサンヤマ(綜制)と呼ばれる(3-4)。これら三部門は一続きの現象の体系を持っていて、明確に区別することができない。第六段階のダーラナ(凝念)とは、「心を特定の場所に縛りつけておく」ことだと言われる(3-1)。また、第七段階のディヤーナ(静慮)とは、「同一の場所を対象とする想念が、ひとすじに伸びていくこと」だと言われる(3-2)。凝念はマナスを一つの箇所に留め、その対象への意識を明瞭にしていく動作であるのに対して、静慮はその対象から生じた認識から連想される意識を、明瞭に連続させる動作を指すのだと推測される。「その静慮が、外見上、その思念する客体ばかりになり、自体を無くしてしまったかのようになった時が、三昧と呼ばれる境地である」(3-3)。ゆえに、第八段階のサマーディ(三昧)とは、対象のみがあって、自我が意識されない状態、今日の哲学用語で「主客未分」の言葉に近いと思われる。三昧にはこれを超えた境地、すなわち無種子三昧があり、それと比べると、こちらは有種子三昧と言われる(3-8)。

 有種子三昧には未だ、ダンマ(現象)が認識として伴っている。ヨーガの究極目標としては、この認識を止めることが目標だとされる。三昧の境地を保てるようになると、プラギャー(智慧)が生じる(1-48, 3-5)。この智慧から生じるサンスカーラ(行、残存印象)は、他の印象の発生を抑え、何の印象も発生しない境地へと至る。この段階になることで、煩悩により生じていた心は消え、アートマンブラフマンの二元性を悟るという、プルシャの本来の目的が達成される。以上の心の静止がヨーガの極地であり、無種子三昧だと言われる。

 『ヨーガ・スートラ』の3章の後半、および4章は、ヨーガを行うことによって得られるシッディ(霊能、超能力)の説明が大半である。シッディの内容は、今日の我々には信じがたく、その内容も多くが突飛である。そのため内容については割愛するが、こうした超能力の獲得に分量が割かれていること自体は一考に値する。佐保田(1976)はこれについて、「超能力のヨーガにおける意義は、綜制という心理操作の錬成の進歩の程度を計る試金石たるにある」と述べている(3-55に対する注釈)。ようは三昧の境地に至るには、超能力を獲得するほどの精神集中力が必要だということだ。本文内にも、「綜制の諸結果は三昧にとっては障害である。雑念にとってはシッディであるが」という記述があり(3-37)、シッディの獲得は、三昧の境地に至った者に付随するものであることが注意されている。シッディは、ヨーガの目的にはならないということだ。

 また、そのシッディの説明の結論部にある議論も興味深い。「ブッディのサットヴァとプルシャとの清浄さが等しくなったとき、プルシャが独存する境地が現れる」(3-55)。用語を確認すると、ブッディはプルシャとサットヴァが出会うことで、サットヴァの側に生まれるものである。これによって真我であるプルシャは覆い隠され、私たちはブッディを自己だと勘違いしてしまう。これが無明である。だがブッディは、純粋性や正しさを持つサットヴァから生まれたものであり、本来は善性を示すはずである。人は生きていく中で、ブッディもまたラジャスやタマスによって汚されていくようであり、これを取り除くことが、ヨーガの目的の一つであるとされる。ヨーガによってブッディの汚れが取り払われると、ブッディは本来のサットヴァ性を取り戻し、プルシャを観照するための状態へと移行する。これによって、本来の自己がプルシャであるという境地が出現するのだと推測される。

 加えて重要だと思われる点は、最終部の解脱についての記述である。「解脱とは、プルシャのためという目標のなくなった三グナが、自身の本源へと没し去ることである。あるいは、純粋精神であるプルシャがプラクリティに安住することだと言ってもよい(4-34)」。つまり解脱とは、三昧の境地に達した結果、グナがそれ以上の展開(生成)を行わないという状態のことである。グナが展開しなければ、あらゆる物質も、さらには心も生じることはない。一切が滅び、それ以上生まれないことにより、ヨーギーの至上の目標が達成される。

 

〈参考文献〉

佐保田鶴治『ヨーガ根本経典』、平河出版社、1976年 (『サーンキヤ・カーリカー』の要約、『ヨーガ・スートラ』の邦訳を含む)。

早島鏡正他『インド思想史』、東京大学出版会、1982年。

番場一雄『ヨーガの思想 心と体の調和を求めて』、日本放送出版協会、1986年。

 

計4370字(表題部除く)

ポスト・スターリン期における権力闘争と「雪どけ」

 

1.序論

 本稿は、スターリンが亡くなった後のソ連において、政治や社会がどのように変化していったのかを検討するためのレポートである。したがって本論においてはまず、スターリンが亡くなる直前のソ連の状況を説明する(第2章)。その後、スターリンの腹心である幹部らについて説明し(第3章)、その中から特にベリヤが躍進したことを追ったのち(第4章)、ベリヤが排斥され、フルシチョフがトップに立つまでを概説していく(第5章)。

 

2.スターリンの死

 1953年3月、スターリン脳卒中で亡くなった。晩年のスターリンは猜疑心を強め、寝室に誰も入らないよう指示していたため、病状の発見が遅れたのである。スターリンが亡くなる直前のソ連の状況は、最悪と言っても差し支えない様相であった。第二次世界大戦の「勝利の陶酔」によって自由化を求めた民衆の運動は徹底的に潰され、西側諸国との間には「冷戦」が始まっていた。53年1月に、スターリンの担当医師9人が彼を暗殺しようとしたとして逮捕される「医師団事件」が起きると、国内の不安はさらに加速する。逮捕された医師の多くがユダヤ人であったことが、人々に大テロルの再来をさらに予感させたのである。48年にイスラエルが建国されて以降、ソ連内のユダヤ人は出国の恐れがあるとして、反ユダヤ主義キャンペーンが行われており、ユダヤ人粛清の雰囲気が強い状況下にあった。

 

3.集団指導体制の確立、諸幹部の様相

 スターリンが亡くなった後の幹部会では、今後の指導方針が話し合われた。幹部たちは集団指導体制を構築していくことを確認し、首相マレンコフ、内相ベリヤ、党書記フルシチョフを中心に、ポスト・スターリンの体制を構築していった。また幹部会ビューローが廃止され、以前の政治局の規模に戻された。よって、古参幹部のモロトフとミコヤンが指導部に復帰した。以下では、当時の指導部にどのような幹部がいたのかを、簡単に説明したい。

 まず重要なメンバーは、前述したマレンコフ、ベリヤ、フルシチョフら、いわゆる新顔の幹部らである。最終的な勝者フルシチョフは、クルスク生まれのウクライナ人であり、一方のマレンコフはマケドニア移民である。両者は独ソ戦において大きな活躍を見せ、晩年のスターリンによって引き立てられた。

 ベリヤはグルジア系の一部族、ミングレル人の出身であり、秘密警察の長官を務めていた。彼は大テロルの実行を担ったエジョフの後任としてこの役職に就き、その後の虐殺を主導した。また彼は当時ソ連が躍起になっていた核兵器開発の部長も務めており、重要な人物であったことは間違いないが、スターリンの最晩年の頃(50~52年)には冷遇を受けた。スターリンはベリヤを失脚させるために、彼の出身であるミングレル人をあらぬ疑いで逮捕し、その責任をベリヤに押し付けるなどの行動に出た(ミングレリア事件)。ただしベリヤは、ミングレル人の出身でありながらも、彼らと友好的な関係にあったわけではなく、むしろ責任を擦り付けられないように自ら秘密警察を動かし、ミングレル人への抑圧自体を隠蔽しようとしたと目されている。

 ベリヤとマレンコフは、戦後の文化批判を主導した幹部のジダーノフが48年に亡くなった後、結託してジダーノフ派を排除する動きを見せた。これには、ジダーノフ派がロシア民族主義を掲げていたことが、非ロシア系の幹部にとって不都合だったという背景があると考えられており、これによって数千人が逮捕されるという事件へと発展した(レニングラード事件)[1]。この事件による欠員で幹部候補へと昇進したのが、後に幹部として躍進するスースロフである。

 最も古株なのは、スターリンの右腕として20年代から長く活躍してきたモロトフである。彼は首相兼外相として辣腕を振るい、独ソ不可侵条約や日ソ中立条約を締結したことで知られる。しかしモロトフは戦後、急速にスターリンの信用を失い、幹部会から外されるなどの処分を受けた。この失脚の背景には、スターリンが体調を崩していた際に、代わりに政務を担ったことや、西側諸国に対する、ある程度寛容な態度(これがスターリンには行き過ぎに見えたらしい)、婦人がユダヤ人であり抑圧を受けたことなどが重なっていると見られる。その他、彼の詳細な活躍は下斗米(2017)に詳しい。

 残る幹部はミコヤンである。彼もまた古参の幹部であり、貿易大臣に相当する職を30年以上務めた。彼はフルシチョフによる「スターリン批判」の際も早くからその肩を持ち、反党グラード事件以降も幹部の中で唯一その席を守った。彼は、ソ連の歴史を通して最も長く幹部の席に残り続けた人物だと言える。彼の出自はアルメニアにあり、また弟には、ソ連の主力戦闘機を開発する航空機設計企業MiGの設立者、アルテム・ミコヤンがいる。

 以上が、主要な党官僚の説明である。彼らによる集団指導体制は、同時に権力闘争の様相を見せていく。しかし彼らの闘争は、これまで取られてきたような抑圧ではなく、解放という形で国民に明かされていく。「雪どけ」の時代である。

 

4.「雪どけ」の時代

 集団指導体制の中から先駆けて行動を見せたのは、内相のベリヤであった。彼は秘密警察による独自の情報網を持っており、他の幹部より国民の訴えを把握しやすい立ち位置にあった。彼は国民の解放を求める流れを汲み取り、急速な改革を展開した。彼はまず、53年3月に大規模な大赦、すなわち刑の軽い犯罪者の解放や刑期の軽減を発表した。当時、ソ連強制収容所には約240万人もの人が捕まっており、その半数もの人々が順次解放されていくこととなった。ただし、大赦による急激な労働人口の増加は、職にあぶれる人の増加も招き、結果として犯罪率の上昇など、社会不安の悪化も引き起こした面もあると言える[2]

 また、ベリヤは医師団事件を捏造だったとして取り下げ、加えてソ連第二次世界大戦後に併合した東欧諸国に対する抑圧を緩和し、現地の裁量を認める姿勢を打ち出した。こうしたベリヤによる急速な改革路線、つまり非スターリン化の兆候に対しては、反発する幹部も多く、幹部会におけるベリヤ排斥の機運は次第に高まった。同年6月、東ドイツのベルリンにおける労働者ストライキが暴動に発展し、市民に死傷者が出ると、幹部会はベリヤの政治方針への反発をより強めるようになり、同月にベリヤの逮捕に踏み切った。当時ベリヤは治安の悪化への対処を理由に、モスクワに内務省が管理する軍隊を集中させており、それがクーデターの陰謀だと捉えられたのである。結局ベリヤは同年12月に処刑された。

 以上の流れで気になることは、ベリヤという大量粛清を担った人物が、なぜここまで急速な改革を行ったのか、という点である。岡本(2018)はこれについて、「大テロルの責任者として自分が追求されるのをそらす狙いがあったのではないだろうか」と述べている(p.151)。筆者としてはそもそもの問題として、幹部たちはスターリンの命令に忠実に従いながらも、その実彼の命令に心までも納得しているわけではなかったのか、この点が気にかかっている。これについて下斗米(2017)は、「モロトフだけがスターリンの死を心から悼んだ」と述べている(p.189)。独裁者を支える幹部たちであっても、人物にまで心酔していたどうかは別問題なようだ。事実、「雪どけ」の空気はベリヤの処刑後も留まることはなく、残りの指導部によって、いっそう推し進められていった。

 改革の波は農業政策にも及んだ。食糧問題は、抑圧による農民の意欲の減退などによって戦後になっても解決しておらず、国民を飢餓から救うことは政府の急務であった。指導部は53年4月に穀物調達価格の引き上げを行い、食糧問題に取り組むが、それでも国営商店だけでは供給が間に合わず、8月に宅地付属地における副業、つまりコルホーズ市場用の農産物生産の容認を行った。それまで宅地付属地は、戦後の引き締め政策によって管理を厳格にされており、厳しい税制が取られていたが、それも次第に緩和されていくこととなった。加えてマレンコフやミコヤンは、9月に食品加工や紡績などの軽工業への転換方針を打ち出した(ただしこれはフルシチョフの重工業路線とは対立することとなった)。食糧問題はこの期を境に改善の兆しを見せていく。

 

5.フルシチョフの攻勢

 ベリヤを排除した後の指導部では、マレンコフとフルシチョフが権力闘争を展開し、結局フルシチョフが勝利することとなった。ここではその流れを簡単に見ていく。

 集団指導体制は当初、首相のマレンコフが名目上のトップとして始まった。彼は新体制の当初から「個人崇拝」、つまりスターリン崇拝を批判しており、非スターリン化を率先して行おうとしていたと見られている。

 対して共産党第一書記のフルシチョフは、当初ベリヤの政策を「スターリン路線からの乖離」として批判しており、既存の路線を変えるつもりはなかったと見られている。フルシチョフの「スターリン批判」の傾向は、マレンコフを辞任に追い込んで以降、急速に表舞台に現れる。こうした彼の態度の変遷には、世論の流れを汲んでのことや、同僚の名誉回復を求める自派の古参ボリシェヴィキらの強い要望などが、その背景にあるのと同時に、モロトフなどの親スターリン派を排除するために展開されたものだと見ることができる。逆説的に、マレンコフと権力闘争を繰り広げていた頃のフルシチョフスターリンに対する態度はその過渡期にあり、非常に曖昧なものだったと言える。

 フルシチョフは農業政策の担当として、54年1月に食糧問題を解決するための処女地開拓政策を提案する。このために動員されたコムソモール(共産党青年部)員の熱意は非常に高く、数十万人もの若者が、カザフスタンや西シベリアなどの未開の極地へと赴いた。結果的にこの政策は一時的な成功を見せ、フルシチョフの求心力は非常に高まることとなった。ただしこの政策は、コムソモール員をずっと農業に従事させることは不可能なので、一時しのぎに近い政策でもあった。開拓地が不作に見舞われると、途端に国内は穀物不足に陥った。

 この政策の影響で権力を固めたフルシチョフは、マレンコフが48年に引き起こしたレニングラード事件を再捜査し、これを攻撃の材料としてマレンコフを追い込んだ。55年2月にマレンコフは辞任し、後続の首相にはフルシチョフ派のブルガーニンが就任した。そしてフルシチョフは、56年2月の第20回党大会で「スターリン批判」を秘密裏に発表し、少しずつ大きな波紋を広げていくこととなる。

 

6.結論

 本稿ではこれまで、ポスト・スターリン期における雪どけと権力闘争の進展について論じてきた。結論として、この時期以降社会的抑圧が緩和され、密告による逮捕への恐怖などから、人々はようやく解放される運びとなった。また、党幹部による権力闘争の結果フルシチョフが勝利し、新たなる指導者が権勢をふるうこととなった。これ以降にも反党グループ事件など、権力闘争はまだまだ続くが、ここまでを見るだけでも、スターリン以降のソ連がどのように姿勢を転換したかの一端は知ることができるように思われる。

 

〈参考文献〉

・岡本和彦(2018)「書評論文 スターリン批判の始まりと帰結に関する一考察 ―和田春樹 『スターリン批判 1953~56年 一人の独裁者の死が、いかに20世紀世界を揺り動かしたか』作品社、2016年」『東京成徳大学研究紀要-人文学部応用心理学部-』、第25号、149~160頁。

・下斗米伸夫(2017)『ソビエト連邦史 1917-1991』、講談社学術文庫

・中嶋毅(2017)『世界史リブレット人 089 スターリン 超大国ソ連の独裁者』、山川出版社

松戸清裕(2011)『ソ連史』、ちくま新書

 

計4590字(表題部除く)

 

[1] 共産党幹部の多くが非ロシア系だったという事実は、戦前の共産党民族主義とは異なる信念の下で動いていたことを強く実感させるものであり、粛清自体は認められるものではないが、興味深いソ連の特徴だと見ることができる。

[2] 松戸(2011)、91頁。

『モナドロジー』における自由意志の存在について

2年生の時に作ったレポートなのですが、2年ぐらい放ってしまいました。結構頑張って作った記憶があるので、読んでいただけると泣いて喜びます。

1.序論

 本稿は、『モナドジー』を主なテキストとしながら、ライプニッツへの理解を深めることを最終的な目標として作成されたレポートである。ライプニッツの主張によると、世界は神によって予定調和されており、未来は決定されているという。筆者の疑問は、その決定論の世界において、自由意志を持つものは存在するのか、ということである。そのため本論では、前提となる概念について説明をしながら、最終的にこの問いに向かっていきたいと思う。議論は主に、モナドと予定調和についての簡単な説明をしてから、神の理性とモナドの理性の関係性、真理の存在について言及し、そこから、本稿の問いである自由に関する考察を行う流れで進む。この問いに強く関わらない部分(精子的動物、魂の不死性、充足理由律など)については言及し切れなかったが、『モナドジー』におけるライプニッツの議論の大枠は拾えたと考えている。

 

2.基本的概念の確認

2-1.モナドについて

 本稿の問いへと至るには、いくつかの前提となる説明が必要となるだろう。まずは、モナドや予定調和といった、基本的な概念から確認したい。

 モナドとは、世界を構成する最小単位のものであり、物質的存在と精神的存在の双方を成す。モナドには部分がなく、延長といった物質的な要素を持たないがゆえに、精神的な実体である。世界を構成する物質は、そうしたモナドの複合体としての姿である。現れたり消えたりしているように見えるのは複合体であり、単純な実体は生まれも滅びもしない。そして、複合体に様々な性質や形状がある以上、モナドもまた、様々な性質を各々が別様に保持している事になる。そう考えると、モナド論は「モナドだけがある」という点では一元論となり、「モナドには一つとして同じものがない」という点では多元論となる。

 

2-2.予定調和について

 次に予定調和について説明する。予定調和とは、それらあらゆるモナドが、互いの不可侵性を保ったままに、内的に変化し調和するという神の決定のことを指す。これは決定論の立場を取る概念だが、同時に自由意志の保持も許されている。これについては後述する。ライプニッツの世界観では、あらゆる部分はモナドであり、神そのものではない。神はアリストテレスにおける「不動の動者」のように、原因と結果の関係として干渉してくるのであり、世界はむしろ遍く精神の世界、「汎心論」なのであって、神はそれら「心(モナド)」の設計者かつ動力源の役割を担う。モナドは、神の働きを受け取る一点の力場だと説明することができる。

 

2-3.理性的魂(精神)、必然的真理(普遍の真理)について

 モナドは、表象の判明度によってその役割が異なっている。大半のモナドは物質をなしており、それらはエンテレケイアと呼ばれる。経験を記憶し、表象を知覚するほどとなったモナドは(感覚的)魂となり、理性の一端を表出する。それらは植物や動物の魂になるとされる。そして、さらに高い理性は、反省という作用によって、モナド自身の内面から必然的な原理を認識することによって引き出される。それらの原理は経験に依らずして把握されるのであり、これによって感覚的魂はより鮮明な表象を得て、神の限りなさを、永遠の真理を知る理性的魂、すなわち精神と変化する。つまり、モナド保有する理性は、反省によって神の理性に近いところまで高めることが出来る。これにより、神の理性とモナド(人間)の理性[1]が絶対的に分かたれているのではなく、漸進的な関係性にあることが導き出される。

 また、このモナド論は、物質に対する精神の絶対性を説いたデカルトの説に反対する、心身一致の立場を取る。デカルトの説の不具合は、その優位な精神がどのように物質に干渉するのかを明確に説明できない点にある。一方のライプニッツにおいては、そのような心配はない。先ほども述べたように、各モナドにはそれぞれの理性の幅があり、理性的魂は支配的モナドとして自我、思考、認識を担い、それ以外のエンテレケイアは被支配的なモナドとして、複合体としての肉体やその他の物質の役割を果たす(『モナドジー』§70参照)。つまり、精神の優位性は非物質性に因るものではなく、理性を表出する判明度で分けられているというのが、彼の主張である。

 

2-4.偶然的真理(事実の真理)について

 上記の説明においては、経験に拠らない真理の存在を確認した。ライプニッツはさらに、経験や理由といった世界の内部の性質もまた、事実の真理として存在すると主張する。事実の真理の特徴は二つある。一つは、永遠的、必然的な真理においては、その反対のものは不可能であるが、事実の真理においてはその反対が可能であり、その真理は偶然的なものとなるということだ(同上§33)。もう一つは、そうした偶然的真理の存在は、必然的真理の存在によって導き出されるということである。

 偶然的世界の中には、物事の推移や原因を説明するだけの十分な理由を見て取ることができる(同上§36)。換言すると、ある偶然的な事物の連続を「○○が原因となって××が起きた…」という無限に続く玉突きのように、因果関係に還元して分析するということである。ここにおいて注意すべきことは、この関係性を唯物論として捉えてはならないということである。もし精神、すなわち心の機微までもが物質だとすると、物質は受動的であることしかあり得ないため、結果的にこの考えは理性的存在の自由意志を否定することになってしまう。世界が偶然であることは、必ずしもそういった存在に自由意志を認めるわけではない。よって、自由意志を認めようとするならば、世界には心的な性質が存在するということになる。

 また唯物論には、あらゆる理由を辿っていったとして、存在の理由に当てはまるものは存在するのか、という問いも発生する。答えはもちろんノーであり、存在の始点より以前に存在があることはありえない。よって、そこには存在を超越した存在である神が置かれる。このように、世界(偶然的真理)は、神(必然的真理)の存在があって初めて導き出される(同上§37,§38)。

 

3.自由意志について

 先の説明によって、世界には心的な性質が存在することと、偶然的な世界は必然的な神の存在によって定められていることが明らかになった。ここからは、上記の前提となる情報を用いて、自由意志の存在を認めるライプニッツ独自の主張を確認したい。

 

3-1.偶然的世界における自由意志

 まず論じたいのは、偶然的世界においての自由、すなわち関係においての自由についてである。関係とは、上記の前提のように、世界は心的存在の関わりによってなされるということ、すなわち諸モナドの複合関係のことを指す。

 世界を構成する諸モナドは、理性の幅によって支配関係が定められている。そして、必然的真理を観照する理性的魂は支配的モナドの働きを成すため、被造物でありながら、本来は神のみが有する能動性を分け持つ。ライプニッツ自身の言葉ではこのように説明される。

 

被造物は、完全性をもつかぎり外部に能動作用を及ぼすと言われ、不完全である限り他の被造物から作用を受けると言われる。それで、モナドが判明な表象を持つ限りそれに能動作用を認め、混乱した表象を持つ限りそれに受動作用を認める(同上§49)。

 

そして、このような必然的真理を分け知る精神は、能動的関係として世界と関わり、被造物を操るだけの力を持つ。それは神と類似した役割を果たすため、ある種の「小さな神」と称される。こちらも引用を引く。

 

通常の魂と精神のあいだには多くの差異があって、その一部はすでに述べたが、なお次のような差異がある。魂一般は、被造物の宇宙の生きた鏡ないしその似姿であるが、精神はそのうえに、神そのもの、自然の作者そのものの似姿であり、宇宙の体系を知ることができ、建築術的な雛型によってある点まで宇宙を模倣することができる。こうしてそれぞれの精神は、自分の領域における小さな神のようなものである(同上§83)。

 

以上のことから、精神=小さな神々は、世界の中において独自の在り方をなし、諸モナドを支配的関係に従える場を占めること、すなわち、世界の関係において優位に立つ、自由な存在であることが証明される。

 

3-2.必然的世界における自由意志

 次に論じたいことは、必然的世界においての自由意志の可能性である。一般的に考えると、決定論においては予定説やスピノザ[2]の汎神論のように、人間の自由意志は存在しないとされる。しかし、『モナドジー』を見ると、それらの説とは異なる結論を見出すことができる。

 神による予定調和は、神がモナドに対して唯一入力した(というより、創造と同時に与えられた)、ある種の設計図によってなされる。ライプニッツはそれを「魂の襞」と呼び、最善の結果を成す世界全体の縮図を内包していると主張する(同上§61)。つまりそれは、神の意志は創造においてのみ関わることを意味し、それ以降はモナド自身の力動がなすということ、また、これまで確認してきた必然的真理が、プラトンイデア界のように別様の世界に存在するのではなく、諸モナドが内在的に保有しているということを意味する。モナドは単独の状態からして、すでに宇宙の全貌をその内に潜ませているのであり、明晰な表象により、その一端を我々に開示する。つまり、モナドは一見して機械的に動いているように見えるが、その実においては、常に自発的に最善の結果、すなわち予定調和をなしているということになる。これにより、モナドの一形態たる理性的精神は、必然的真理を内在的に有しており、それ単体において自発的に働きをなすことが証明される。

 

4.可能世界の検討と最善世界の選択

 ここからは、上記の議論を用いて可能世界と最善世界という概念を説明し、決定論的世界と自由意志がどのように整合するのかを考察したい。

 ライプニッツは、スピノザにおける神による世界の必然性、唯一性を否定し、神は可能世界を検討したうえで、最善の世界を選択するという立場を取る。これは神に限らず、人間などの理性的存在も含まれると思われる。主体的、自発的な自己が、神と同様に考慮と選択を行うのである。これは、そういった存在が可能世界の検討に参加しているということであり、そこから各々の理性の限度に応じた結果を選んでいることになる(同上§57)。ここにおいて、あらゆる選択肢を検討することは、世界が偶然であることを意味し、一方で、最善の世界が選ばれるということは、各モナドが自身の予定調和を発揮するということを意味する。つまりこれは、精神を含めた各モナドがいかなる世界を選択しようとも、それは神の最大の一端を表現するのであり、必然的にそれは最善の世界となるほかないということである(同上§87)。これは、誤解を恐れずに言えば、神が定めているのは世界の最善性のみであり、その内容は精神を含めた各モナドが選び取っている、ということができるだろう。

 

5.結論

 本稿ではこれまで、ライプニッツの世界観における自由意志の存在について、前提となる概念を説明する形で議論を進めてきた。議論を概説すると、最初はモナドについて論じ、それが世界を構成する心的な実体であることを説明した。次に、モナドは表象の判明度によって、精神や魂、物質になることを確認した。さらにその次には、精神が必然的真理を知ることによって引き出されること、また、偶然的真理は必然的真理の存在によって導き出されることを説明した。それからは、議論を自由意志の存在へと進め、諸モナドを従える理性的存在は能動的であり関係的自由を有すること、またモナドは単独にして既に必然的真理を知る力動であり、精神はその一端を表出するので、自発的な単独的自由を有することの二つを説明した。そして最後には、可能世界の検討と最善世界の選択について論じた。ここでは、あらゆる可能世界は世界の偶然性によって検討されるが、その中のどれが選ばれるかは精神を含めた各モナドの予定調和によって果たされるのであり、どの世界を選択しようとも世界は最善のものになるほかない、ということを考察した。結論として、決定論の世界において自由意志を持つ存在は、理性的存在であるということ、また、その自由な意志によりなされる世界は最善となることが証明された。

 

〈参考文献〉

フランクリン・パーキンズ『知の教科書 ライプニッツ』梅原宏司・川口典成訳、講談社選書メチエ、2015年。

ライプニッツモナドジー』谷川多佳子・岡部秀男訳、岩波文庫、2019年。

小林道夫編『哲学の歴史 5: デカルト革命』、中央公論新社、2007年。

 

計5305字(表題部除く)

 

[1] 本稿においては、たびたび理性的魂を有する存在を人間だと言及してしまっているが、ライプニッツにおいては本来、人間という種に限らず、高い理性を有している存在は全て人格的かつ能動的な存在だとされる。

[2] スピノザは、世界そのものが直接的に神であるという汎神論の立場や、決定論、自由意志の否定という立場を取る。ライプニッツスピノザは、言葉の上では非常に立場の異なった印象を与えるが、本質的には主張が似ているようにも思える。この点については、また別の機会を設けて考えてみたいと思う。